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選挙とは忍耐と知れ

2019年07月04日 | 雑記帳
 ANZEN漫才というお笑いコンビ(みやぞんが有名)の鉄板ネタに「かならず選挙に行く」がある。「不良の男と女」がいかにもという事をしながらも必ず選挙へ行くことを、茶化した?唄だ。「誰入れたか忘れちゃう」「記入ミスで無効票」というオチも立派についているので、投票率向上推進CMには採用されない。


 つまり「選挙に行く」行為自体がダサいとみられている。または中味の無い真面目さを嘲笑するというパターンだ。そんなふうに選挙を貶めたのは誰か。それは社会学者あたりの専門分野なのだと思うが、一有権者の肌感覚としては投票行動の無力感は確かにある。蔓延していると思う。それでも票を投じるべきだ。


 出口治明の新書の中に、「そもそも選挙は『より良い人』を選ぶための仕組みではない」と述べられている。それは今から100年前の英国名宰相ウィンストン・チャーチルの言がもとにある。「選挙とは、必ずしも信用のおけない候補者たちの中から、相対的に良さそうな人を選ぶ『忍耐』のことである」と語ったことだ。


 「仕組み」ではなく「忍耐」。言葉遊びのようにも感じるが、選挙によって世の中が良くなる保証はないわけであり、その意味で期待を持って票を投じても当選しなかったり、当選して議員になって思惑が違ったり…失望は繰り返されていく。と考えると、これはやはり忍耐というにふさわしい行為なのかもしれない。


 「かならず選挙に行く」二人の不良男女は、いわば忍耐とはかけ離れたところで国民の権利を行使する。選挙とは元々そういう問題点を孕んでいる。自己の信念を持って票を投じる人も、利益誘導を考える人も、口車に乗る人も数の前には平等なのだ。その不具合を、苦しいと思っても手放さないのが民主主義だろう。