慣れというものは怖ろしい。
誰しもが、一度や二度はそんなことを感じた時があるはずだ。
某週刊誌の連載で、作家橘玲が書いている。
Volume.169
「幸福(不幸)を定義することができないとしても、そこには歴史や地域を超えた人類に普遍的な傾向がある。それは、『どんなことでも慣れてしまう』だ。」
たとえば、こんな美味しいカステラは食べたことがないとF屋の五三焼きを口にしたのはいつだったろうか。
その時は、間違いなく幸福感・満足感に浸ることができたのに…何度目かに食べる時は「やっぱり美味しいね」と言い合うけれど、やはり最初の感動からは著しくダウンしている。
たとえば、贔屓にしているチームの試合であっても、勝ち負けがあるからこそ、応援に力がこもるのだろう。
もっと日常的、いや根本的な事柄にも当てはまるに違いない。
自分の置かれた境遇や身体的特徴など、どう考えどう感じているか、他者にその全貌は見えない。
世間的な物差しでは測れない、それらは、きっと本人の中で渦巻いている。
客観的に見て変化がなくとも、本人の中では「慣れ」によって、幸福度が日々違っている。
とすれば、結論は一つ。
不幸に慣れよ。幸福に慣れるな。
そんな甘い、都合のいい言い方がどこにある!
(自らを叱り、口を滑らす慣れを戒めよ。)
まあ、別の言い方をすれば、
仕方のないことはあきらめろ、恵まれたことには感謝せよ、というごく平凡な処世訓だ。
誰しもが、一度や二度はそんなことを感じた時があるはずだ。
某週刊誌の連載で、作家橘玲が書いている。
Volume.169
「幸福(不幸)を定義することができないとしても、そこには歴史や地域を超えた人類に普遍的な傾向がある。それは、『どんなことでも慣れてしまう』だ。」
たとえば、こんな美味しいカステラは食べたことがないとF屋の五三焼きを口にしたのはいつだったろうか。
その時は、間違いなく幸福感・満足感に浸ることができたのに…何度目かに食べる時は「やっぱり美味しいね」と言い合うけれど、やはり最初の感動からは著しくダウンしている。
たとえば、贔屓にしているチームの試合であっても、勝ち負けがあるからこそ、応援に力がこもるのだろう。
もっと日常的、いや根本的な事柄にも当てはまるに違いない。
自分の置かれた境遇や身体的特徴など、どう考えどう感じているか、他者にその全貌は見えない。
世間的な物差しでは測れない、それらは、きっと本人の中で渦巻いている。
客観的に見て変化がなくとも、本人の中では「慣れ」によって、幸福度が日々違っている。
とすれば、結論は一つ。
不幸に慣れよ。幸福に慣れるな。
そんな甘い、都合のいい言い方がどこにある!
(自らを叱り、口を滑らす慣れを戒めよ。)
まあ、別の言い方をすれば、
仕方のないことはあきらめろ、恵まれたことには感謝せよ、というごく平凡な処世訓だ。