すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

絶対を受けとめる時期

2019年07月08日 | 読書
 戦争体験者が高齢になり、次々と他界していく。
 その苦難を語らぬ人も多いが、なんとしても同じ道を歩ませたくないという気持ちで発信続けている人もいる。
 作家半藤一利もその一人。今月半ばに『焼けあとのちかい』という絵本が発刊される。


Volume.168
 「ぽつんと焼け跡に立ちながら、自分はこの先、『絶対』という言葉を使うまい、とちかいました。『絶対に人を殺さない』と思っていた自分も、あの川のなかで、つかんできた誰かの腕をたしかに振りほどいたのだから…。けれども今回の絵本で、75年ぶりに『絶対』という言葉を使いました。『戦争だけは絶対にはじめてはいけない。』」


 この言葉の重みを、我々のような戦後世代がしっかりと受け止められるか、甚だ不安がある。
 それは、国同士の力学や社会構造に潜む格差意識の中で、いつ火種に組み込まれるかわからない要素を自分自身も抱えていることを意味する。


 だから、もっと様々なことに、臆病に、慎重になっていい。
 ぐずぐずしたり、あれこれ悩んだりして、お互いの腹の中が見合えるような関わりが必要な気がする。
 外交も、日常の人づきあいも似たようなものだ。


 「戦争や戦後の混乱を知らない世代」「高度成長の栄光だけを背負った人たち」がトップになっている今、もっと若い議員が「戦争でもしなければ」などと口さがない一言を発しているという現実を、深慮せねばならない。


 「いまの日本の状況は、満州事変前に酷似しています」と語る半藤が込める「絶対」をしっかり受け止めるならば、まずは一票を示す時期でもある。

嘘ばっかりのこの人生で

2019年07月07日 | 読書
 「」はシソーラス(類語辞典)では7つに区分される。「嘘・嘘を吐く」以外に「大言壮語」「放言」「二枚舌」「有言不実行」「変心」「謀(たばか)る」だ。広辞苑を読むと、その意味は三つに区分される。「真実ではない」「正しくない」「適当でない」。それを意図的に行う表現としては「偽る」「騙す」がふさわしいだろう。


2019読了69
 『嘘ばっかり』(川崎 洋  いそっぷ社)



 「生きていくことが楽しくなるような、ユーモアのセンスが光るような、そんな嘘をつきたいものです。」…この本はそんなふうに締めくくられる。広島の神社の「嘘つき大会」に触発され、17年もの間、嘘をめぐる本や新聞、雑誌等の記事を集めてきた著者。落語から詩、民話、民俗祭祀などから、かなり広範囲に紹介がなされている。


 嘘をつくと閻魔様から舌をぬかれるという話は幼い頃に聞き、なんとなく頭に残ってはいる。だから正直に言えば、舌はもう何百枚抜かれても文句は言えない。反面、悪意ある嘘、誰かを傷つけた嘘…を思い起こしてみると、少し評価が甘い。これが自分に嘘をついている状態か。かように人生は「嘘ばっかり」だ。


 さて、嘘をめぐる様々な話題の中に「偽薬」があった。研究対象として新薬の実験などでよく聞く言葉だ。「医者がもっともらしく渡す薬」は、中身がうどん粉であっても一定の治癒に貢献するというのだから、設定、言葉によって動かされる心の働きを思わざるを得ない。宗教だって選挙運動だって見分けがつかない。


 何篇かの詩が紹介されている。谷川俊太郎のこの詩は読んだことがあったろうか。「うそとほんと」と題されたこの詩の最終連は、今私たちがもっとも心したい姿勢ではないか。放送や公報をまともに受けとめるのではなく、今までのあれやこれやをもう一度思い起こして、その言葉をその声を吟味してみたい。

 うその中にうそを探すな
 ほんとの中にうそを探せ
 ほんとの中にほんとを探すな
 うその中にほんとを探せ


過疎が過密でなれの果て

2019年07月06日 | 読書
 最初、ナルホドと思いながら新聞記事を読んだ。「『過疎』表現変えます」という見出しで総務省の有識者懇談会が、用語の検討に入ったとある。昭和40年代から一般的に使われるようになったとあるし、公的な文書を書いてきた経験からいうとなじみ深い語だ。しかしよく考えると、侮蔑的表現と言われかねない。


 ごく普通に辞書で調べると「まばらすぎること。ある地域の人口などが少なすぎること。」とある。ただ人以外の何かについて「過疎だな」とは普通言わない。「疎」とはもともとどういう意味なのか。たしかに「まばら・あらい」は出るが、他にも「うとい」「注意のゆきとどかない」という項目もある。そこに「」か。


 人がいなければ自ずと注意力にも欠ける面が出るとでも言いたいのか!と、まあ、そんな悪意はないだろう。高度成長末期にこの語が出たとすれば、都会と地方の人口動態に注目させる熟語として適当だったのだろう。名づけたものの明快な打開策が出ないことを嘲笑うように、過疎と過密は日ごとに勢いを増した。


 そんな経緯を頭に置いて再び『イナカ川柳』(TV Bros編集部)を見直すと、さらに面白い。過疎を食い止めよう、地方に活気を、なんとか人を集めようと苦労した結果の「なれの果て」を詠んだ句が胸に沁みる。


 「あぁこれは テーマパークと いう野原」

 「ゆるキャラを 3体燃やした 焼却炉」

 「ひらがなの 変な名前で 再出発」

 「傷跡が 残っただけの 町おこし」


 
 過疎という現象そのものが過密(笑)になりすぎたので、表現としてふさわしくないという面もあるのか。穿った見方ではあるけれど…。さて、選挙運動期間中なので、その絡みの二句と、かなりぶち切れ気味の本音の一句で締めよう。


 「選挙カー 畑でむなしく ビックエコー」

 「里帰り 訛ってみせる 議員さん」


 「これ以上 何がんばるの? この過疎で!」

イナカ川柳にハマる

2019年07月05日 | 読書
  必要があって俳句の本を探していたら、同じ書棚になかなか興味深い書名を見つけた(これが図書館や書店めぐりの醍醐味で、ネットのおススメとは違う出逢い方のような気がする)。川柳だと正統派?の時実新子作品、それからいつも話題になる「サラリーマン川柳」が思い浮かぶが、これも結構インパクトが強い。

2019読了68
 『イナカ川柳』(TV Bros編集部)


 田舎をネタにできるのは、いわば「自虐」の材料があふれているからである。表紙をめくって、「はじめに」の前に写真とともに置かれた2句が象徴している。

 「商店街 シャッター、シャッター、 店、シャッター」

 「何もかも 巨大なイオンが 包み込む」



 たしかに「東京周辺に住む人たちを除いた3/4の日本人のあるあるネタ」にあふれ、かなりニヤツクことが出来る。ただ「田舎」と言っても範囲は広く、「集落が 秘境と呼ばれ 自覚する」という過疎地レベルから、「イケアから 近所のニトリに 浮気する」という県庁所在地近辺レベルまで混合している。


 いずれにしても、今の日本の風景をかなりリアルに描いていると感心した。近所で起こっていることから、ドラマで取り上げられそうなこと、ドキュメンタリーで放送されるような、いわば社会問題の全般が網羅されているといっていい。

 「近所の子 結婚出産 そしてレジ」

 「地区行事 一枚噛んだら 逃げられない」

 「長男と 余った野菜は いつもある」



 編集部は「ディストピアと化した田舎に向けて、東京のテレビは『恵比寿の美味しいお店』など、今日も能天気な電波を発信しています。まるでひとつの国の中に、田舎と東京という二つの国があるかのようです」と書く。地方創生などと東京の官邸や議事堂から漏れてくる声が響かない訳を、政治家は知っているか。


 裏面の表紙カバーは、青空に筋雲が伸びたさわやかな写真が使われている。そこに掲げられた一句が、自分の中ではベストかな。和歌山市の人が詠んでいる。

 「東京に 続いている気が しない空」

選挙とは忍耐と知れ

2019年07月04日 | 雑記帳
 ANZEN漫才というお笑いコンビ(みやぞんが有名)の鉄板ネタに「かならず選挙に行く」がある。「不良の男と女」がいかにもという事をしながらも必ず選挙へ行くことを、茶化した?唄だ。「誰入れたか忘れちゃう」「記入ミスで無効票」というオチも立派についているので、投票率向上推進CMには採用されない。


 つまり「選挙に行く」行為自体がダサいとみられている。または中味の無い真面目さを嘲笑するというパターンだ。そんなふうに選挙を貶めたのは誰か。それは社会学者あたりの専門分野なのだと思うが、一有権者の肌感覚としては投票行動の無力感は確かにある。蔓延していると思う。それでも票を投じるべきだ。


 出口治明の新書の中に、「そもそも選挙は『より良い人』を選ぶための仕組みではない」と述べられている。それは今から100年前の英国名宰相ウィンストン・チャーチルの言がもとにある。「選挙とは、必ずしも信用のおけない候補者たちの中から、相対的に良さそうな人を選ぶ『忍耐』のことである」と語ったことだ。


 「仕組み」ではなく「忍耐」。言葉遊びのようにも感じるが、選挙によって世の中が良くなる保証はないわけであり、その意味で期待を持って票を投じても当選しなかったり、当選して議員になって思惑が違ったり…失望は繰り返されていく。と考えると、これはやはり忍耐というにふさわしい行為なのかもしれない。


 「かならず選挙に行く」二人の不良男女は、いわば忍耐とはかけ離れたところで国民の権利を行使する。選挙とは元々そういう問題点を孕んでいる。自己の信念を持って票を投じる人も、利益誘導を考える人も、口車に乗る人も数の前には平等なのだ。その不具合を、苦しいと思っても手放さないのが民主主義だろう。

読書なんぞにストレスを

2019年07月03日 | 雑記帳
 これも「平和の代償」なのかなとちょっと頭をよぎった。ある調査をしていたら、こんな声が書かれてあった。「読書、読書と言われることにストレスを覚えます。」その方は、読書が良いことは十分に分かるが…と記した後で、そんなふうに文章を締めくくった。紛れもない本音であろう。なんとなくわかる気がする。


 戦時下であれば、本を読むことなど二の次で、多くの人が身の安全と腹の足しになるものを求めていた。もちろん書籍の絶対数が少ないのだから、手に入れることさえ難儀する時代には、本というだけで価値があり、活字を求める心が満たされないストレスはあっても、押し付けられるような気持ちは皆無だったろう。


 数えきれないほど本が出版され、様々なサービスも展開され、読書の障害になることなど全くないと言っていいのに、実は自らの心が壁を作っている。ご馳走を前に食べる前に満腹感を覚えてしまうようなものか。食べ物なら食べなくては腹がすくけれど、本ならば別の何かで代替できるようで、渇望感は起きない。


 今、読書に限らず、良いことのリストがあまりに増えすぎて、人々を圧迫している。最近の、特に幼い子の亡くなるような悲惨な事件について、罪を犯した者へ同情はしないが、責任は100%個だけにあるとも思われない。出自や周囲の環境、経済など複合的に絡みあうなかに、善意を纏った悪意は存在しなかったか。


 「良いことだから…」「将来役立つ…」と、多くがこぞって疑いなしに進めていく事柄に対して、異を唱えるのは難しい。抵抗するには骨が折れる。気に入らない推進事項には「柳に風」を決め込むのが得策だ。読書なんぞにストレスを感じないでほしい。好きな本を好きなように読む自由は保障されているのだから。

平和の代償が続いている

2019年07月02日 | 読書
 日本史についてはやや興味があるが、世界史・西洋史となると正直チンプンカンプンである。映画などにもあまり興味がない。
 だから塩野七生の高名は知っていても、その著書は読んだことがない。ただ雑誌に掲載された文章、対談記録などを目にすると、ずいぶんと鋭い見方をすると頷くことがたびたびある。

Volume.167
 「私たちがいまニュースなどで見て、『困ったことになっちゃったな』と思うことはすべて、『平和の代償』なのです。」

 本の刊行記念として行われた、読者との対談会。
 ある読者がローマ帝国の瓦解と絡ませ、日本の滅び方について問うたときに発した一言である。

 戦争は「悪ですが、ひとつだけ利点がある」とし、それは人々の願望が安全と食の二つに集約されることであり、長い平和の時代を過ごしてきた我々日本人の欲望は、分散し多様化してきたと説く。


 欲深くなり、勤勉さを失い、結果私たちの社会には「困ったこと」があふれるように出てきた。毎日のニュースやネット記事を賑わしている大半のことが、それを起因としているように思う。
 もちろん、「困った」と感じるかどうかは人様々であり、その種類も存在の根源に関わる問題から、そうでない些末なことに範囲は広い。

 私たちにとって「大したこと」は何なのか。きちんと見極めることが必要だ。
 「代償」であるから仕方ないとは考えず、我々の日頃の一喜一憂の本質を時々見つめてみたい。


 塩野は、こう語っている。
 「私たちはこの七十年の間に、得たものと失ったものをよく認識して、少しずつ微調整していくしかない。

 時々話題にしているつもりだが、はたして得たもの、失ったものを「よく認識」しているだろうか。

「どこにもない場所」には行けない

2019年07月01日 | 読書
 ユートピアという語は様々な施設や場所、団体などの名称に使われている。地元のFM局もその名を冠している。「理想郷」という意味が浸透しているからだろう。もとはトマス・モアというイギリスの作家の小説の題名だという。そして、そもそもはギリシア語で「どこにもない場所」を指す意味とされている。


 もちろん「良い方向」のどこにもないであろうが、「ユートピアなんてどこにもないさ」という昔ありがちだった台詞は、同語反復のようで、さもありなんと笑えてくる。よく自己啓発本では、幸福追求のポイントが示される。その条件に「時間」や「人」は挙がっても、「場所」の影が薄いのはやはり優先度が低いのか。


 そうは言っても正直、生まれた国が紛争が絶えなかったり、独裁者が仕切っていたりしない現実には感謝する。俯瞰的にみれば、それが幸せの基本条件ラインを決定しているように思える。しかし、どんな心構えより場所の方が…とはやはり言い訳に過ぎない。ということで?今年上半期最後の読了は、湊かなえで。


2019読了67
 『ユートピア』(湊かなえ 集英社)



 三人の女性を主人公としたミステリ。いかにも湊作品という味わいだが、既視感もあるのはパターン化も感じているからか。本の帯には「善意は、悪意より恐ろしい。」様々な作品にも込められていたテーマだ。ユートピアが理想郷と称されるのは、結局、人間がいる郷である限り実現しないと誰しも知っているからだ。


 「地に足着けた大半の人たちは、ユートピアなどどこにも存在しないことを知っている。ユートピアを求める人は、自分の不運を土地のせいにして、ここではないどこかを探しているだけだ。永遠にさまよい続けていればいい。」…さまよっていることに気づければ、人は別の観点に目をつける。そこがスタートとなる。