10月5日夜中の午前1時05分からNHKでETV特集「城山三郎」の再放送をしておりました。たまたま見たのですが、そこでは、記者会見で城山氏が、終戦の空の青さを語っておりました。私は眠かったので途中からつけたテレビを、早々に消して寝たのですが、その会見の場面が印象に残りました。
城山三郎・山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)があります。
城山氏は1927年生まれ。それが、1958年生まれの山氏の質問に答えている本です。父と子ほどに違う年齢差をまたぎながら、言葉の受け渡しが、しっかりとなされていきます。山氏にとっては、実の父親にも聞けなかったことを、まるで触覚で時代の輪郭をたどりなおすように城山氏の姿をさぐってゆきます。城山氏は胸襟をひらくとでもいうのでしょうか、それに誠実に答えていきます。
そのなかに終戦の青空のことがありました。
終戦の頃のことを城山氏は答えております。
「負けるということは、負けて生き残るわけだからね、そういうケースがあるとは夢にも思っていなかった。勝つか死ぬか。・・・」(p33)
終戦の日をどんな気持ちで迎えられたのでしょうと山氏が尋ねると、
それに答えて
「はっきり覚えていない。とにかく空が青い、空が高いなあって思ったことだけは覚えている。空をね、当時は空をゆっくり見上げるなんてことはしないから、空を見上げるのは敵機が来たときくらいで。・・とにかく、空が高いなあ、青いなあと思ったことだけ。昔、僕の実家で見たときも青空が高いと思ったけど、こんなに空が高いのかって、それくらい高かった。それまで戦争中はしみじみと空を見ることなんてなかったから。ゆっくり空を見上げている心の余裕もないしね。」(p36)
ここから、私に思い浮かんだのは、この夏読んだ伊東静雄でした。
その昭和20年の日記には、こうあります。
「数日前から心臓ひどく圧迫を感じて痛み、脈搏時々乱れるので、15日は休養してゐた。高岡の西のおばあさんが来て、今日正午天皇陛下御自らの放送があるといふニュースがあつたと云つた。門屋の廂のラヂオで拝聴する。ポツダム条約受諾のお言葉のように拝された。やうにといふのはラヂオ雑音多く、又お言葉が難解であつた。しかし『降伏』であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた。・・・国民誰もが先日の露国参戦に対する御激励の御言葉をいただくものと信じてゐたのであつた。先日の露国の国境侵入の報知をきいた時、国民は絶望を、歯をくひしばつた心持でふみこらへてゐたのであつた。・・・・・・
十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」
伊東静雄は1906年生まれ。
江藤淳は、1932年生まれ。
その江藤淳は、伊東静雄の詩集「反響」の中の、詩「夏の終り」について丁寧に解釈をしておりました。
「・・そして『気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく』というこの『空』、この空は、まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さをどこかに反映していないとも限らない。そしてこの非常にメローディアスな、まるで子守歌のような諧調を持った詩には、なにか個人ではたえきれないほどのいわば個人をこえたものの(それをかりに民族という言葉でよぶとすれば、そういうものの)かなしみが付け加わっている。
私はこの伊東静雄という優れた詩人の作品に、亡国の民の、敗亡のかなしみが、非常にはっきりと定着されていることに感動するのであります。敗北の意味を、どのように解釈することも自由であります。そこに、さまざまな史観によってどんな解釈がおこなわれたにしても、それは勝手であります。勝手でありますけれども、そのとき人々が、解放感とともに味った深いかなしみの実在はうごかせません。ふつうの人間は、その哀しみの存在に必ずしも気がつかなかった。二十年たった今でもあまり気がついていない、とすら言える。しかし、われわれのなかのある敏感な魂、悲劇的な生の相を、深く見つめながら、十数年間の詩業をいとなんできた敏感なひとりの詩人の魂には、このかなしみは明晰にとらえられていて、このやうにやさしい訣別の歌になったのではないか、と私は考えるのであります。」(「伊東静雄の詩業について」)
こうして解釈を示したからには、伊東静雄の詩「夏の終り」も引用しましょう。
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
いちいちそう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやか暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
空ということで、城山三郎・伊東静雄ときました。
詩「夏の終り」には、一行目に「白い雲」とあります。
そういえば、司馬遼太郎は「坂の上の雲 一」のあとがきに、書いておりました。
「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。・・楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」
1923年生まれの司馬遼太郎は、ちょうど終戦を本土でむかえました。江藤氏は「まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さを」と書いておりました。それならば、その時、司馬さんは、どのように空をあおいだのだろう。と私は思ってみるのでした。空をね。
城山三郎・山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)があります。
城山氏は1927年生まれ。それが、1958年生まれの山氏の質問に答えている本です。父と子ほどに違う年齢差をまたぎながら、言葉の受け渡しが、しっかりとなされていきます。山氏にとっては、実の父親にも聞けなかったことを、まるで触覚で時代の輪郭をたどりなおすように城山氏の姿をさぐってゆきます。城山氏は胸襟をひらくとでもいうのでしょうか、それに誠実に答えていきます。
そのなかに終戦の青空のことがありました。
終戦の頃のことを城山氏は答えております。
「負けるということは、負けて生き残るわけだからね、そういうケースがあるとは夢にも思っていなかった。勝つか死ぬか。・・・」(p33)
終戦の日をどんな気持ちで迎えられたのでしょうと山氏が尋ねると、
それに答えて
「はっきり覚えていない。とにかく空が青い、空が高いなあって思ったことだけは覚えている。空をね、当時は空をゆっくり見上げるなんてことはしないから、空を見上げるのは敵機が来たときくらいで。・・とにかく、空が高いなあ、青いなあと思ったことだけ。昔、僕の実家で見たときも青空が高いと思ったけど、こんなに空が高いのかって、それくらい高かった。それまで戦争中はしみじみと空を見ることなんてなかったから。ゆっくり空を見上げている心の余裕もないしね。」(p36)
ここから、私に思い浮かんだのは、この夏読んだ伊東静雄でした。
その昭和20年の日記には、こうあります。
「数日前から心臓ひどく圧迫を感じて痛み、脈搏時々乱れるので、15日は休養してゐた。高岡の西のおばあさんが来て、今日正午天皇陛下御自らの放送があるといふニュースがあつたと云つた。門屋の廂のラヂオで拝聴する。ポツダム条約受諾のお言葉のように拝された。やうにといふのはラヂオ雑音多く、又お言葉が難解であつた。しかし『降伏』であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた。・・・国民誰もが先日の露国参戦に対する御激励の御言葉をいただくものと信じてゐたのであつた。先日の露国の国境侵入の報知をきいた時、国民は絶望を、歯をくひしばつた心持でふみこらへてゐたのであつた。・・・・・・
十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」
伊東静雄は1906年生まれ。
江藤淳は、1932年生まれ。
その江藤淳は、伊東静雄の詩集「反響」の中の、詩「夏の終り」について丁寧に解釈をしておりました。
「・・そして『気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく』というこの『空』、この空は、まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さをどこかに反映していないとも限らない。そしてこの非常にメローディアスな、まるで子守歌のような諧調を持った詩には、なにか個人ではたえきれないほどのいわば個人をこえたものの(それをかりに民族という言葉でよぶとすれば、そういうものの)かなしみが付け加わっている。
私はこの伊東静雄という優れた詩人の作品に、亡国の民の、敗亡のかなしみが、非常にはっきりと定着されていることに感動するのであります。敗北の意味を、どのように解釈することも自由であります。そこに、さまざまな史観によってどんな解釈がおこなわれたにしても、それは勝手であります。勝手でありますけれども、そのとき人々が、解放感とともに味った深いかなしみの実在はうごかせません。ふつうの人間は、その哀しみの存在に必ずしも気がつかなかった。二十年たった今でもあまり気がついていない、とすら言える。しかし、われわれのなかのある敏感な魂、悲劇的な生の相を、深く見つめながら、十数年間の詩業をいとなんできた敏感なひとりの詩人の魂には、このかなしみは明晰にとらえられていて、このやうにやさしい訣別の歌になったのではないか、と私は考えるのであります。」(「伊東静雄の詩業について」)
こうして解釈を示したからには、伊東静雄の詩「夏の終り」も引用しましょう。
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
いちいちそう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやか暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
空ということで、城山三郎・伊東静雄ときました。
詩「夏の終り」には、一行目に「白い雲」とあります。
そういえば、司馬遼太郎は「坂の上の雲 一」のあとがきに、書いておりました。
「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。・・楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」
1923年生まれの司馬遼太郎は、ちょうど終戦を本土でむかえました。江藤氏は「まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さを」と書いておりました。それならば、その時、司馬さんは、どのように空をあおいだのだろう。と私は思ってみるのでした。空をね。