曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」ーー日本軍の住民自決命令はなかった!」(ワックBUNKO)の書評をしようと思ったわけです。
私はこの曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」を名著だと思っております。1973年に単行本として出たのですが、ワック社から2006年に新版で再々登場した本です。内容はというと、
昭和25年に出た沖縄タイムス社の『沖縄戦記・鉄の暴風』という著書に焦点を定め。その本のなかで「悲憤・慟哭・痛嘆」している少尉が、じつは昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切のインタビューも受けたことがないことを突き止めます。資料が目撃者でなく他の人からの伝聞から書かれていることを明るみにする。さらに虚構の小説として創作している箇所を「・・場面は実に文学的によく書けた情景といわねばならない。・・しかしそのようなことが許され得るのは、虚構の世界に於いてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、誰にも許されていない・・」と現地にいって確認しながら曽野さんは書いております。
この曽野さんの本は、虚構という小説の狭い枠におさまりきれない、文学の偉大さを味わう一冊なのです。渡嘉敷島での聞書きの混乱のなかでさえ、たしかな推理の足どりをゆるめず。そこから、歴史の骨格へと降りてゆく名著なのです。
ちょうどいま、沖縄戦の集団自決についての教科書問題で、朝日新聞など一面(10月2日)あつかいで騒いでおります。もし沖縄の方が「鉄の爆風」を読んで、曽野綾子さんの本を読めないとしたら、この情報隠しは、卑劣です。どなたにも一読をお勧めしたい本なのです。(ちなみに、何かの手違いなのでしょうbk1では注文できない。セブンアンドワイやアマゾンなら注文できます)。
余談になりますが、産経新聞2006年8月27日にこんな箇所がありました。
照屋昇雄(82)さんが「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」と答えています。
新聞には
「照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして『準軍属』扱いとする案が浮上。村長らが・・赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、『命令を出したことにしてほしい』と依頼、同意を得たという。」
「照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省は32年5月、集団自決した島民を『戦闘参加者』として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。」
照屋さんへのインタビューの最後の質問は
「あらためて、なぜ、今証言するのか」とありました。
答えて
「赤松隊長が余命3ヵ月となったとき、玉井村長に『私は3ヵ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」とあります。
援護法を受ける資格調査についても具体的です。
渡嘉敷島での聞き取り調査を一週間で100人以上から聞いたそうで、
「その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか」という質問には「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」と答えております。
そして
「民間人から召集して作られた防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、一人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣りの島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた・・・」
曽野さんは渡嘉敷島に行って検証しているのですが、
それでは「沖縄ノート」の大江健三郎氏はどうだったのか。
以前に、4月分の朝日の古新聞をもらってきたことがありました。
そこに、大江健三郎の「定義集」という連載。
たまたま読んだのですが、こう始まります。
「私は二年前から、裁判の被告です。・・
訴えられているのは、私が37年前に出した『沖縄ノート』(岩波新書)で渡嘉敷島の住民に日本軍が強いた『集団自決』について論評している部分です。・・」
その次にこんな文が続くのでした。
「私(大江健三郎)は1965年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄戦から五年かけての徹底的なインタビューについて聞きました。氏が執筆者のひとりである『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同世代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。私は渡嘉敷島を訪れていません。それはあの沖縄戦で、時には自分の手を血で汚しさえして、苦しみつつ生き延びた島の人たちに、直接聞きただす勇気がなかったからです。・・」
ここは、裁判の被告として、直接に、大江さんは渡嘉敷島を訪れていなかったという御自身の立場を語っている。
集団自決の歴史はあらためて検証していくべき課題を担っております。
いままでのまま中学教科書に
「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)とする断定記述で、そのままに、日本の中学生に刷り込んでよいはずがないのです。
私はこの曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」を名著だと思っております。1973年に単行本として出たのですが、ワック社から2006年に新版で再々登場した本です。内容はというと、
昭和25年に出た沖縄タイムス社の『沖縄戦記・鉄の暴風』という著書に焦点を定め。その本のなかで「悲憤・慟哭・痛嘆」している少尉が、じつは昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切のインタビューも受けたことがないことを突き止めます。資料が目撃者でなく他の人からの伝聞から書かれていることを明るみにする。さらに虚構の小説として創作している箇所を「・・場面は実に文学的によく書けた情景といわねばならない。・・しかしそのようなことが許され得るのは、虚構の世界に於いてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、誰にも許されていない・・」と現地にいって確認しながら曽野さんは書いております。
この曽野さんの本は、虚構という小説の狭い枠におさまりきれない、文学の偉大さを味わう一冊なのです。渡嘉敷島での聞書きの混乱のなかでさえ、たしかな推理の足どりをゆるめず。そこから、歴史の骨格へと降りてゆく名著なのです。
ちょうどいま、沖縄戦の集団自決についての教科書問題で、朝日新聞など一面(10月2日)あつかいで騒いでおります。もし沖縄の方が「鉄の爆風」を読んで、曽野綾子さんの本を読めないとしたら、この情報隠しは、卑劣です。どなたにも一読をお勧めしたい本なのです。(ちなみに、何かの手違いなのでしょうbk1では注文できない。セブンアンドワイやアマゾンなら注文できます)。
余談になりますが、産経新聞2006年8月27日にこんな箇所がありました。
照屋昇雄(82)さんが「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」と答えています。
新聞には
「照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして『準軍属』扱いとする案が浮上。村長らが・・赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、『命令を出したことにしてほしい』と依頼、同意を得たという。」
「照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省は32年5月、集団自決した島民を『戦闘参加者』として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。」
照屋さんへのインタビューの最後の質問は
「あらためて、なぜ、今証言するのか」とありました。
答えて
「赤松隊長が余命3ヵ月となったとき、玉井村長に『私は3ヵ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」とあります。
援護法を受ける資格調査についても具体的です。
渡嘉敷島での聞き取り調査を一週間で100人以上から聞いたそうで、
「その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか」という質問には「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」と答えております。
そして
「民間人から召集して作られた防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、一人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣りの島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた・・・」
曽野さんは渡嘉敷島に行って検証しているのですが、
それでは「沖縄ノート」の大江健三郎氏はどうだったのか。
以前に、4月分の朝日の古新聞をもらってきたことがありました。
そこに、大江健三郎の「定義集」という連載。
たまたま読んだのですが、こう始まります。
「私は二年前から、裁判の被告です。・・
訴えられているのは、私が37年前に出した『沖縄ノート』(岩波新書)で渡嘉敷島の住民に日本軍が強いた『集団自決』について論評している部分です。・・」
その次にこんな文が続くのでした。
「私(大江健三郎)は1965年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄戦から五年かけての徹底的なインタビューについて聞きました。氏が執筆者のひとりである『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同世代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。私は渡嘉敷島を訪れていません。それはあの沖縄戦で、時には自分の手を血で汚しさえして、苦しみつつ生き延びた島の人たちに、直接聞きただす勇気がなかったからです。・・」
ここは、裁判の被告として、直接に、大江さんは渡嘉敷島を訪れていなかったという御自身の立場を語っている。
集団自決の歴史はあらためて検証していくべき課題を担っております。
いままでのまま中学教科書に
「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)とする断定記述で、そのままに、日本の中学生に刷り込んでよいはずがないのです。