和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「広辞苑の嘘」。

2007-10-27 | Weblog
渡部昇一著「時流を読む眼力」(到知出版社)によると、

「シナ事変の日本は、いまのイラクにおけるアメリカとまったく同じ状況だったのだ。日本はシナ大陸から引き揚げたかったのだ。東條英機も賢明にその方策を模索している。しかし、汪兆銘政権はできたばかりで、基礎が固まっていない。蒋介石は重慶で失地回復を狙っている。毛沢東は虎視眈々と勢力拡大を図っている。日本が手を引けば、いまのイラク情勢のように、大変な混乱に陥ることは目に見えていた。・・・」(p163)

「シナ事変勃発時・・・・実質参謀本部を切り回していたのは、参謀次長で中将の多田駿である。参謀本部の作戦部長は石原莞爾であった。この石原はシナ大陸での不拡大方針を唱える最先鋒だったのだ。だから、蘆溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている。ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていったのだ。参謀次長の多田は南京占領後に停戦を強く主張したが、近衛内閣の方針に押し切られた。」(p182~183)


この通州事件について、渡部昇一氏は「広辞苑の嘘」(光文社)の対談で、具体的に語っておりました。ちなみに「広辞苑の嘘」(2001年)は現在手に入らないようで、古本屋に注文して読まれるしかないようです。そういえば、あれは何年前でしょう。千葉県西船橋(船橋西?)図書館では、渡部昇一氏等の本が、無断で破棄されたことがありました。図書館でさがしても「広辞苑の嘘」は、ちょいと捜せないかもしれませんね。

「つぎに、日本人住民、約二百人もがシナ兵に虐殺された『通州事件』にもふれます。これは広辞苑が意図的に外し、岩波の歴史年表でも抹殺しています。つまりシナに都合の悪い史実は書かないという岩波の偏向的執着の露呈というやつです。御存知ない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです(朝日新聞社法廷記者団編『東京裁判』上中下〈昭和37年〉東京裁判刊行会)。・・・・岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p186~187)

「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で、渡部昇一氏は書いております。

「とくに定義の偏向が問題になるような単語は、私は絶対に『広辞苑』で引くことはなかった。だから「『広辞苑』は少しおかしい」という噂は耳にしたことはあったが、実際上私には全く縁がなかった。ところが今、改めて歴史認識や思想が問題になる項目を拾い当たってみると、なるほど見逃すことのできない偏向がある。とくに注目すべきことは、版が新しいものほど嘘が多くなっていることだった。普通は辞書は版を重ねるほどよくなるはずだが、『広辞苑』はその反対なのである。」(p280)


さて、今年はもうすぐ新しい版の『広辞苑』がでるそうなのでした。その発売される「広辞苑」について、最新語が載ったの、載らないのと最近も新聞・テレビ等で面白可笑しくとりあげておりました。もし機会があったなら、『通州事件』を引いてみたいですね。どなたか引く機会がありましたなら、教えて下さい。新しい版の広辞苑について。
そして、渡嘉敷島の住民には、あの戦争中に、つねに通州事件のことが念頭にあったのだと思い返してみてもよいのです。それが集団自決と関連してきそうな気配なのですから。そして、そこに歴史が静かに横たわっているのですから。その一点を隠す、岩波の広辞苑や近代日本総合年表は、みごとに隠蔽に成功していたのです。

戦争中の大本営発表の嘘。
続く平和時の広辞苑の嘘。

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問題じゃない。

2007-10-27 | Weblog
今日は雨ですね。ちょうど台風が、千葉県の先端をかすめて通るらしい。
こんな雨の日は、なにか語りたくなります。
ということでひとつ三題噺といきましょう。

「通州事件」という、聞きなれない事件がございます。
歴史的事件なのですが、知られていないのは、どうしてか?
辞書に載っていないから、調べようがなかった。
それについて、語ってみたいと思ったわけです。


通州事件・渡嘉敷島・広辞苑という、ことで噺をつなげていきたくなりました。お付き合いの程よろしくお願いいたします。

ちょうど月刊雑誌「WILL」12月号が送られて来たのです。定期購読の期間が、次号で終わるので、継続手続きをお願いの挨拶が二枚。雑誌といっしょに入っておりました。その「ご挨拶」には
「創刊三年・・月刊雑誌としては『文藝春秋』に次ぐ売れ行きで、業界内外でも一応誌名を覚えていただけるようになりました。」とあります。またこうもあります。
「11月号は中西輝政さんの『小沢一郎と日本共産党』などがこれまた大好評で、一昨年4月号、昨年9月号10月号に続き4度目の完売、増刷をいたしました。」とありまして、丁寧にも「ご挨拶」の最後には編集長のサイン入りです。そして、今回の12月号は「総力特集・沖縄集団自決の真実」。有無を言わせないのは、渡部昇一氏の「歴史教育を歪めるもの」でして、これだけでも読めるのは、現代を含めての歴史を鮮やかに知る醍醐味があります。

産経新聞では、
10月19日「断」で、呉智英さんの文が簡潔で的確な指摘。
10月23日「正論」、曽野綾子さんの文は、静かに語りかけて来ます。
その語りかけは「そもそも人生では、『こうであった』という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったことを証明することは非常にむずかしい」。
そのむずかしいことを静かに、丁寧に綿密に語りかけている文でございます。
大声で、大多数の人員を誇って語られる言葉との違いを味わいたい文なのです。
もっとも、てっとりばやく簡単なのは、数量の多さを誇って、押し切るという方法ですね。数にものを言わせる、9月29日、沖縄での主催者発表11万人という集会など、そのよい例であります。政治生命は、数に密接に結びついておりますから、新聞発表の確認が手間取る間隙で、簡単に「左翼・革新系」によって、手玉にとられる始末であります。

この11万人を「実際にテイケイ(株)の会長がプロジェクトチームを作り、写真を拡大して一人一人、塗りつぶしながら数えるという膨大な作業の結果、二万人にも満たないということが判明しました」(p67・WILL12月号)。

この数値は肝心な箇所ですから、週刊新潮11月1日号からも引用しておきます。

「大手警備会社『テイケイ』の役員の一人である。日韓ワールドカップの会場警備などを担当してきた経験からこう語る。『多目的広場全体を俯瞰して撮った写真を入手したので、正確な人数を割り出すのは簡単なことでした』拡大した写真の画面を小さな四角形に区分。それぞれに詰まった豆粒大の人間像を、100人単位で赤、黄、緑と塗りつぶして数えやすくしたのだという。『社員4人に命じて、1日がかりでカウントさせました。その結果判明したのが、目視できた人数だけなら1万8179人。木陰や建物の陰に隠れている人たちを含めても1万9000人~2万人という数でした』」(p49)

この数字を、沖縄県民大会事務局幹事の平良長政県議に伝えると、
どう答えたか、まあ、だいたいわかるでしょうけれど、ここもしっかりと引用しておきましょう。主催者発表についてでした
「一人、一人数えたわけではありません。過去の集会の人数などを参考に、概算数を発表しました。が、正確な人数なんか問題じゃない。重要なのは教科書検定のほうなのですから・・・・」こうしてテーマを、もうズラしてしまう。こういうのを「困ったさん」というのでしょうね。

ここでは、呉智英さんの「断」での文の最後を引用しておきます。

「これは単なる計測制度の問題ではない。論理の整合性の問題である。だって、
戦時中の大本営発表を嘲弄してきた自分たちが同じことをしていたらまずかろう。
南京事件の犠牲者の数をごまかすなと主張してきた自分たちが参加者の数をごまかしたら厚顔無恥というものではないか。沖縄戦の犠牲の真相を隠蔽するなという抗議集会で自らの参加者数の真相を隠蔽していたら説得力はゼロだ。私は、左翼、革新に『自浄能力』はないと思う。いや、左翼、革新だけではないのだけどね。」


ところで、前置きがながくなってしまいました。
いまも、雨は強弱をつけながら、途切れなく降っております。
ここから、三題噺へと入りたいと思うわけです。

藤岡信勝氏は産経新聞の10月24日「正論」で
「沖縄集団自決」の教科書問題について、「従来、『軍命令説』の根拠とされてきたのは、座間味島と渡嘉敷島のケースだった。しかし、どちらのケースについても、当時島に駐留していた日本軍海上挺進隊の隊長は、住民に集団自決を命令していなかった。それどころか、集団自決のための武器・弾薬を求めに来た住民に対し、隊長は『決して自決するでない』と押しとどめ(座間味島)、集団自決が起こったことを知ったあとは『何という早まったことをしてくれたのか』と嘆き悲しんだ(渡嘉敷島)。」とあります。これについて反対の見解があるわけであります。

この反対の見解をお持ちの方に、読んでいただきたいのが「WILL」12月号なのですね。
それも、左翼・革新ではない普通の方が読んでくださるといいのになあ(と思って、私は書いているわけです)。
雑誌に皆本義博氏の語りが掲載されています(p78~83)
渡嘉敷島の中隊長だった方で、そのはじまりはというと、沖縄での集会の疑問から語られております「主催者発表と朝日新聞の報道では11万人が参加したとのことでした。あのニュースを見て気になったので、渡嘉敷島にいる集団自決で生き残った金城武徳さんに電話をしました。『宜野湾で集会があったそうだが、渡嘉敷島では何人参加したか』と聞いたら、『中隊長殿、渡嘉敷島からは誰も行ってません』とのことでした。・・・この集会は明らかに政治的、組織的に集められた連中のやっていることだと思います。」こうして語りは始まっておりました。

脱線しますが、終わりも紹介しておきます。

「『沖縄ノート』は沖縄タイムス社編著『鉄の暴風』と現地で手に入る資料などをもとにしたとしていますが、大江健三郎氏はもちろんのこと、当時の沖縄タイムスの記者などは、渡嘉敷島現地に一歩も足を踏み入れていないんです。にもかかわらず大江氏は、現地取材もしないで軍が命令したと言い張るんですから・・・もう亡くなりましたが、家永三郎や中野好夫も同じです。それに引きかえ、曽野綾子さんは立派でした。・・・本の執筆の際、曽野さんは島に渡り、もんぺを履いてずっと取材されていました。私はこの方の素晴らしさに感動しております。」(p83)

その「りっぱさ」を確認したければ、曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」(WAC)で読めます。

どんどんと、主題が逸れていくようで、すみませんね。
これからは、もっと簡潔に三題噺をすませるようにします。

皆本義博さんの語りで、注目したのは
「金城武徳さんも次のように証言しています。『軍の命令ではなく、鬼畜米英にとらわれれば女性は辱めを受け、男性はドラム缶の中で焼かれると聞いていた。・・・・』当時住民の間では、中国大陸の尼港事件や通州事件など、民間の日本人が多数虐殺された事件が強い印象として残っていたから、教訓に近いものがあった・・・・」(p81)

ここに「通州事件」という言葉がでてくるのです。


今は雨足が強くなっております。
いよいよ台風がかすめて通るのでしょうか。

以下、文字打ち込みがゆっくりとなったので、稿をあらためて、
つぎにします。






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