渡部昇一著「時流を読む眼力」(到知出版社)によると、
「シナ事変の日本は、いまのイラクにおけるアメリカとまったく同じ状況だったのだ。日本はシナ大陸から引き揚げたかったのだ。東條英機も賢明にその方策を模索している。しかし、汪兆銘政権はできたばかりで、基礎が固まっていない。蒋介石は重慶で失地回復を狙っている。毛沢東は虎視眈々と勢力拡大を図っている。日本が手を引けば、いまのイラク情勢のように、大変な混乱に陥ることは目に見えていた。・・・」(p163)
「シナ事変勃発時・・・・実質参謀本部を切り回していたのは、参謀次長で中将の多田駿である。参謀本部の作戦部長は石原莞爾であった。この石原はシナ大陸での不拡大方針を唱える最先鋒だったのだ。だから、蘆溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている。ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていったのだ。参謀次長の多田は南京占領後に停戦を強く主張したが、近衛内閣の方針に押し切られた。」(p182~183)
この通州事件について、渡部昇一氏は「広辞苑の嘘」(光文社)の対談で、具体的に語っておりました。ちなみに「広辞苑の嘘」(2001年)は現在手に入らないようで、古本屋に注文して読まれるしかないようです。そういえば、あれは何年前でしょう。千葉県西船橋(船橋西?)図書館では、渡部昇一氏等の本が、無断で破棄されたことがありました。図書館でさがしても「広辞苑の嘘」は、ちょいと捜せないかもしれませんね。
「つぎに、日本人住民、約二百人もがシナ兵に虐殺された『通州事件』にもふれます。これは広辞苑が意図的に外し、岩波の歴史年表でも抹殺しています。つまりシナに都合の悪い史実は書かないという岩波の偏向的執着の露呈というやつです。御存知ない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです(朝日新聞社法廷記者団編『東京裁判』上中下〈昭和37年〉東京裁判刊行会)。・・・・岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p186~187)
「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で、渡部昇一氏は書いております。
「とくに定義の偏向が問題になるような単語は、私は絶対に『広辞苑』で引くことはなかった。だから「『広辞苑』は少しおかしい」という噂は耳にしたことはあったが、実際上私には全く縁がなかった。ところが今、改めて歴史認識や思想が問題になる項目を拾い当たってみると、なるほど見逃すことのできない偏向がある。とくに注目すべきことは、版が新しいものほど嘘が多くなっていることだった。普通は辞書は版を重ねるほどよくなるはずだが、『広辞苑』はその反対なのである。」(p280)
さて、今年はもうすぐ新しい版の『広辞苑』がでるそうなのでした。その発売される「広辞苑」について、最新語が載ったの、載らないのと最近も新聞・テレビ等で面白可笑しくとりあげておりました。もし機会があったなら、『通州事件』を引いてみたいですね。どなたか引く機会がありましたなら、教えて下さい。新しい版の広辞苑について。
そして、渡嘉敷島の住民には、あの戦争中に、つねに通州事件のことが念頭にあったのだと思い返してみてもよいのです。それが集団自決と関連してきそうな気配なのですから。そして、そこに歴史が静かに横たわっているのですから。その一点を隠す、岩波の広辞苑や近代日本総合年表は、みごとに隠蔽に成功していたのです。
戦争中の大本営発表の嘘。
続く平和時の広辞苑の嘘。
「シナ事変の日本は、いまのイラクにおけるアメリカとまったく同じ状況だったのだ。日本はシナ大陸から引き揚げたかったのだ。東條英機も賢明にその方策を模索している。しかし、汪兆銘政権はできたばかりで、基礎が固まっていない。蒋介石は重慶で失地回復を狙っている。毛沢東は虎視眈々と勢力拡大を図っている。日本が手を引けば、いまのイラク情勢のように、大変な混乱に陥ることは目に見えていた。・・・」(p163)
「シナ事変勃発時・・・・実質参謀本部を切り回していたのは、参謀次長で中将の多田駿である。参謀本部の作戦部長は石原莞爾であった。この石原はシナ大陸での不拡大方針を唱える最先鋒だったのだ。だから、蘆溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている。ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていったのだ。参謀次長の多田は南京占領後に停戦を強く主張したが、近衛内閣の方針に押し切られた。」(p182~183)
この通州事件について、渡部昇一氏は「広辞苑の嘘」(光文社)の対談で、具体的に語っておりました。ちなみに「広辞苑の嘘」(2001年)は現在手に入らないようで、古本屋に注文して読まれるしかないようです。そういえば、あれは何年前でしょう。千葉県西船橋(船橋西?)図書館では、渡部昇一氏等の本が、無断で破棄されたことがありました。図書館でさがしても「広辞苑の嘘」は、ちょいと捜せないかもしれませんね。
「つぎに、日本人住民、約二百人もがシナ兵に虐殺された『通州事件』にもふれます。これは広辞苑が意図的に外し、岩波の歴史年表でも抹殺しています。つまりシナに都合の悪い史実は書かないという岩波の偏向的執着の露呈というやつです。御存知ない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです(朝日新聞社法廷記者団編『東京裁判』上中下〈昭和37年〉東京裁判刊行会)。・・・・岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p186~187)
「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で、渡部昇一氏は書いております。
「とくに定義の偏向が問題になるような単語は、私は絶対に『広辞苑』で引くことはなかった。だから「『広辞苑』は少しおかしい」という噂は耳にしたことはあったが、実際上私には全く縁がなかった。ところが今、改めて歴史認識や思想が問題になる項目を拾い当たってみると、なるほど見逃すことのできない偏向がある。とくに注目すべきことは、版が新しいものほど嘘が多くなっていることだった。普通は辞書は版を重ねるほどよくなるはずだが、『広辞苑』はその反対なのである。」(p280)
さて、今年はもうすぐ新しい版の『広辞苑』がでるそうなのでした。その発売される「広辞苑」について、最新語が載ったの、載らないのと最近も新聞・テレビ等で面白可笑しくとりあげておりました。もし機会があったなら、『通州事件』を引いてみたいですね。どなたか引く機会がありましたなら、教えて下さい。新しい版の広辞苑について。
そして、渡嘉敷島の住民には、あの戦争中に、つねに通州事件のことが念頭にあったのだと思い返してみてもよいのです。それが集団自決と関連してきそうな気配なのですから。そして、そこに歴史が静かに横たわっているのですから。その一点を隠す、岩波の広辞苑や近代日本総合年表は、みごとに隠蔽に成功していたのです。
戦争中の大本営発表の嘘。
続く平和時の広辞苑の嘘。