山川健一著「【書ける人】になるブログ文章教室」(ソフトバンク新書)
を読んでいたら「日本語は語尾が重要だ。【です・ます】調で書くにせよ【だ・である】調で書くにせよ、語尾の選択は文章の全体を引き締めもするし、だらだらとした頼りないものにもする。・・・」(p124~129)という箇所が印象に残りました。
そこから、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文芸春秋社・p152~153)と、
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」(研究社)の序説を思い浮かべたのでした。ということで、語尾と古文との関連を芋づる式に連想しました。
それでは、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」。
その第五章は「訳す・読む・話す」です。そのなかにこんな箇所があるのを思い出したのです。
「外国人として日本語を書く場合、もちろんハンデキャップはある。一番むずかしいのは言葉の選択であろう。だがそれ以外に、表現がどことなく日本的でないという場合が多いのである。【である】と書いてもべつに差し支えのないときにも【でないこともない】と書くのなどは、日本語の論文らしく見せるための一つのコツであろう。・・・・曖昧さを残す文章は、とくに評論などでは、英語の場合はあまりいい文章とはされない。一般に曖昧はよくないのである。それに反して日本語では、曖昧さがそれ自体として喜ばれることが多い。曖昧でない文章は固すぎ、あざとすぎると思われるのである。だが、そんなことよりもっと日本語のむずかしいところは、なんでもないような点、従ってそれだけに日本語的な点であろう。【・・・と私は思う】と書くべきか、または【私は・・・と思う】と書くべきか、意味は同じでも前後の関係や内容によって、自然になったり不自然になったりする。そのような選択は、文法よりむしろ文章の問題であり、日本人でも迷うのではないだろうか。英語にも、もちろん表現の選択はある。しかし、【正直に言って】、【正直に言うと】、【正直に言えば】・・・三つとも意味はまったく同じだが、いざ書くとなると迷わざるをえない。どういう場合にどれを使うべきか、それとも文章全体のニュアンスからそのときどきに判断するほかないのか。・・・」
もう一度、山川健一の新書から引用してみます。
「語尾とは文法的には活用する語の変化する部分を言う。これに対して変化しない部分を語幹と言う。だが、この際そんなことはどうでもいい。とにかく文法上の語尾ということではなく「。」の直前の言葉を自由にたくさん使えることが大切なのだ。・・・思いつくままにいろいろな種類の語尾というか、文末を締めくくるための表現をあげていこう。」
こうしてあげている言葉が並ぶのです。
「だ・だよね・だった・だったよね・だったけど・などである・なのだろうか・ちがいない・ほかならない・気がする・気がしないでもない・かもしれない・なる・なっている・なるはずだ・と思う・と思った・と思わざるをえない・と思うほかなかった・と考える場合もある・と考えられなくもない・と考えている人がいても不思議ではない・いけない・いけないのか・いけないのだろうか・すぎない・すぎないではないか・すぎないのではないだろうか・すぎないと言うべきだ・と知るべきだ・の地平を切り開いた・に等しい・してみたい・してみようか・してみようかな。このあたりでやめておくが、文末を締めくくるための表現はほぼ無限に存在するのだ。」(p125~129)
ここから古語へと補助線を引きたくなるわけです。
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」の序説は、こうはじまっておりました。
「諸君は次の問いに答えられるか。もし答えられないのだったら、この本を読む必要があるだろう。なぜと言えば、諸君は、古語についてきわめて初歩的な知識さえもしっかり身につけていないことが確かなのだから。」
こうして問題というには「つぎの中古(口語)文または上古(口語)文を正確な現代(口語)文に言いかえよ。」
ということで、問題のはじまりをすこし並べてみます。
「花咲かむ・花咲くらむ・花咲きなむ・花咲かなむ・花咲きけむ・花咲きけり・花咲けり。花咲けりけり・花咲きぬ・花咲きにき・花咲きたり・花咲きしか・花こそ咲きしか・花こそ咲かね・花こそ咲かね、春は来にけり。・・・・・」とまだ問題はまだ続くのでした。
でもなあ、答はわからなくとも、私はこの国文法入門を読む気もしないしなぁ。
そういえば、ドナルド・キーンさんの鼎談「同時代に生きて」で、面白い箇所がありました。それは鶴見俊輔さんが語っているとこです。
「私がいたのは、コンコードとケンブリッジで、マサチューセッツ州のそこにじっとしていて、本ばかり読んでいたわけです。私の知っている英語は、そこの英語なんです。・・・それが日本語にも妙な影響を与えるんですよね。本のタイトルを考えるときも、だいたい英語からくるんです。だから『私の地平線の上に』というのは、[on my horizon]で、逆にそこから上がってくるんです。私は海軍ですが、・・・自分の思っていることを言ったらぶっ殺されますよ。だから、じーっと隠して、日本語だけ。その癖が、戦後七、八年抜けなかったんです。日本語で書こうと思うと、そこに無理がいく。だから、ひどい日本語をずっと書いてきたんです。そして、そのプロセスで志賀直哉の助言を得たんです。志賀直哉は、こう言ったんです。『日本語の中の、名文というものを暗唱して、これに自分を近づけようと思ってはいけない。日本語と英語とのあいだのドブにおっこったら、その中でもがいていけ。それが自分の文体を作るだろう』と。これは名言だと思う。」(p131~132)
ちなみに、私などは、鶴見俊輔氏の本を楽しく読んでいたのですが、そういう読者にとっては、どのような文体の影響があるのでしょうか。という疑問にもちゃんと答えておりました。
<鶴見俊輔>いまの日本の風俗の中に、【外国】というのが入ってきているでしょう?その入り方が、明治以前の入り方と違っているんですね。言葉も入っているし、映画やテレビから身ぶりとしても入っているし、考え方も混ざってきていますね。だから、私は日本語だけを使おうと努力しているんですけれど、底のほうに別のものがあるんです。
<瀬戸内寂聴>いま、外国語の言葉のままでは困るから、日本語に直そうというので、日本語がますます変なことになって、あれ、困るんじゃないですかねえ。
<鶴見>英語がわかっていないと、日本語がわからないということがありますね。そういう目から見ると、大正文学では谷譲次(林不忘、牧逸馬のペンネームも持つ。1900~35)というのが大変面白いんですよ。
(p133~134)
これじゃまとまりそうもないので、
最後に、ドナルド・キーンさんの「けじめ」をもってきます。
それは翻訳について語ったものです。
「というわけで、自分が英語で書き日本語にも訳したという本は、これまで一冊もない。それでいて、日本語を英語に訳すことなら、できる。どんなに日本的な表現でも、一応英語らしい英語に直すことが可能である。逆の場合は、原文の英語に忠実に訳そうと思えば不自然な日本語になり、意味を移すには移せるが、翻訳の過程で原文の一部が消えてしまう。英文和訳のくろうとの場合は、その微妙な「消失」を避けうるのである。従って私は、日本語を英語に訳すときの自分はくろうとだが、その逆は素人だと承知している。そして、くろうとと素人の間には、はっきりしたけじめがある。・・・」(ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」第五章)
を読んでいたら「日本語は語尾が重要だ。【です・ます】調で書くにせよ【だ・である】調で書くにせよ、語尾の選択は文章の全体を引き締めもするし、だらだらとした頼りないものにもする。・・・」(p124~129)という箇所が印象に残りました。
そこから、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文芸春秋社・p152~153)と、
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」(研究社)の序説を思い浮かべたのでした。ということで、語尾と古文との関連を芋づる式に連想しました。
それでは、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」。
その第五章は「訳す・読む・話す」です。そのなかにこんな箇所があるのを思い出したのです。
「外国人として日本語を書く場合、もちろんハンデキャップはある。一番むずかしいのは言葉の選択であろう。だがそれ以外に、表現がどことなく日本的でないという場合が多いのである。【である】と書いてもべつに差し支えのないときにも【でないこともない】と書くのなどは、日本語の論文らしく見せるための一つのコツであろう。・・・・曖昧さを残す文章は、とくに評論などでは、英語の場合はあまりいい文章とはされない。一般に曖昧はよくないのである。それに反して日本語では、曖昧さがそれ自体として喜ばれることが多い。曖昧でない文章は固すぎ、あざとすぎると思われるのである。だが、そんなことよりもっと日本語のむずかしいところは、なんでもないような点、従ってそれだけに日本語的な点であろう。【・・・と私は思う】と書くべきか、または【私は・・・と思う】と書くべきか、意味は同じでも前後の関係や内容によって、自然になったり不自然になったりする。そのような選択は、文法よりむしろ文章の問題であり、日本人でも迷うのではないだろうか。英語にも、もちろん表現の選択はある。しかし、【正直に言って】、【正直に言うと】、【正直に言えば】・・・三つとも意味はまったく同じだが、いざ書くとなると迷わざるをえない。どういう場合にどれを使うべきか、それとも文章全体のニュアンスからそのときどきに判断するほかないのか。・・・」
もう一度、山川健一の新書から引用してみます。
「語尾とは文法的には活用する語の変化する部分を言う。これに対して変化しない部分を語幹と言う。だが、この際そんなことはどうでもいい。とにかく文法上の語尾ということではなく「。」の直前の言葉を自由にたくさん使えることが大切なのだ。・・・思いつくままにいろいろな種類の語尾というか、文末を締めくくるための表現をあげていこう。」
こうしてあげている言葉が並ぶのです。
「だ・だよね・だった・だったよね・だったけど・などである・なのだろうか・ちがいない・ほかならない・気がする・気がしないでもない・かもしれない・なる・なっている・なるはずだ・と思う・と思った・と思わざるをえない・と思うほかなかった・と考える場合もある・と考えられなくもない・と考えている人がいても不思議ではない・いけない・いけないのか・いけないのだろうか・すぎない・すぎないではないか・すぎないのではないだろうか・すぎないと言うべきだ・と知るべきだ・の地平を切り開いた・に等しい・してみたい・してみようか・してみようかな。このあたりでやめておくが、文末を締めくくるための表現はほぼ無限に存在するのだ。」(p125~129)
ここから古語へと補助線を引きたくなるわけです。
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」の序説は、こうはじまっておりました。
「諸君は次の問いに答えられるか。もし答えられないのだったら、この本を読む必要があるだろう。なぜと言えば、諸君は、古語についてきわめて初歩的な知識さえもしっかり身につけていないことが確かなのだから。」
こうして問題というには「つぎの中古(口語)文または上古(口語)文を正確な現代(口語)文に言いかえよ。」
ということで、問題のはじまりをすこし並べてみます。
「花咲かむ・花咲くらむ・花咲きなむ・花咲かなむ・花咲きけむ・花咲きけり・花咲けり。花咲けりけり・花咲きぬ・花咲きにき・花咲きたり・花咲きしか・花こそ咲きしか・花こそ咲かね・花こそ咲かね、春は来にけり。・・・・・」とまだ問題はまだ続くのでした。
でもなあ、答はわからなくとも、私はこの国文法入門を読む気もしないしなぁ。
そういえば、ドナルド・キーンさんの鼎談「同時代に生きて」で、面白い箇所がありました。それは鶴見俊輔さんが語っているとこです。
「私がいたのは、コンコードとケンブリッジで、マサチューセッツ州のそこにじっとしていて、本ばかり読んでいたわけです。私の知っている英語は、そこの英語なんです。・・・それが日本語にも妙な影響を与えるんですよね。本のタイトルを考えるときも、だいたい英語からくるんです。だから『私の地平線の上に』というのは、[on my horizon]で、逆にそこから上がってくるんです。私は海軍ですが、・・・自分の思っていることを言ったらぶっ殺されますよ。だから、じーっと隠して、日本語だけ。その癖が、戦後七、八年抜けなかったんです。日本語で書こうと思うと、そこに無理がいく。だから、ひどい日本語をずっと書いてきたんです。そして、そのプロセスで志賀直哉の助言を得たんです。志賀直哉は、こう言ったんです。『日本語の中の、名文というものを暗唱して、これに自分を近づけようと思ってはいけない。日本語と英語とのあいだのドブにおっこったら、その中でもがいていけ。それが自分の文体を作るだろう』と。これは名言だと思う。」(p131~132)
ちなみに、私などは、鶴見俊輔氏の本を楽しく読んでいたのですが、そういう読者にとっては、どのような文体の影響があるのでしょうか。という疑問にもちゃんと答えておりました。
<鶴見俊輔>いまの日本の風俗の中に、【外国】というのが入ってきているでしょう?その入り方が、明治以前の入り方と違っているんですね。言葉も入っているし、映画やテレビから身ぶりとしても入っているし、考え方も混ざってきていますね。だから、私は日本語だけを使おうと努力しているんですけれど、底のほうに別のものがあるんです。
<瀬戸内寂聴>いま、外国語の言葉のままでは困るから、日本語に直そうというので、日本語がますます変なことになって、あれ、困るんじゃないですかねえ。
<鶴見>英語がわかっていないと、日本語がわからないということがありますね。そういう目から見ると、大正文学では谷譲次(林不忘、牧逸馬のペンネームも持つ。1900~35)というのが大変面白いんですよ。
(p133~134)
これじゃまとまりそうもないので、
最後に、ドナルド・キーンさんの「けじめ」をもってきます。
それは翻訳について語ったものです。
「というわけで、自分が英語で書き日本語にも訳したという本は、これまで一冊もない。それでいて、日本語を英語に訳すことなら、できる。どんなに日本的な表現でも、一応英語らしい英語に直すことが可能である。逆の場合は、原文の英語に忠実に訳そうと思えば不自然な日本語になり、意味を移すには移せるが、翻訳の過程で原文の一部が消えてしまう。英文和訳のくろうとの場合は、その微妙な「消失」を避けうるのである。従って私は、日本語を英語に訳すときの自分はくろうとだが、その逆は素人だと承知している。そして、くろうとと素人の間には、はっきりしたけじめがある。・・・」(ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」第五章)