鶴見俊輔・渡部昇一・外山滋比古の三氏を比べると、現在の私には、外山滋比古氏の本が一番しっくりと読めるような気がします。ところで、三氏の本に登場する佐々木邦を読んでみたいと思うのですが、とりあえず、外山滋比古編「佐々木邦 心の歴史」(みすず書房・大人の本棚)を古本屋に注文しまして、それが届きました。その本の解説は外山滋比古氏が書いておりました。六ページ。さて、外山氏の本も読みながら、この「心の歴史」も読んでみましょう。うん。たいてい、こう宣言すると読まないことになるのですが(笑)。まあ、読まないときは、読みたいと思うことでも書いておきます。外山滋比古氏の「エディターシップ」を読んで、あえて新しい「新エディターシップ」を古本屋にたのんだのでした。
「文化の中心部に位する活字刊行物においてエディターシップがこれほど曖昧になっているのは、新聞とか雑誌とかの形式は外国のものの見よう見真似でつくることができるが、それに生命を与える精神の機能は真似ることも翻訳することもできにくいからであろう。われわれの国は、西欧文化を摂取して百年になるが、エディターシップについては、これを真剣にとり入れようとしたことはほとんどなかったといってよい。ヨーロッパ自体でも、オーサシップに比べるとエディターシップの影はずっとうすいのであるから、これもやむを得ないといえばやむを得ない。しかし、明治以来のわが国の文化、思想がなんとなく生気に乏しく、創造性に欠けるのは、エディターシップがながい間、文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。形式的エディターシップの確立が急がれなくてはならない。」(外山滋比古著「ホモ・メンティエンス」みすず書房p172)
「文化の中心部に位する活字刊行物においてエディターシップがこれほど曖昧になっているのは、新聞とか雑誌とかの形式は外国のものの見よう見真似でつくることができるが、それに生命を与える精神の機能は真似ることも翻訳することもできにくいからであろう。われわれの国は、西欧文化を摂取して百年になるが、エディターシップについては、これを真剣にとり入れようとしたことはほとんどなかったといってよい。ヨーロッパ自体でも、オーサシップに比べるとエディターシップの影はずっとうすいのであるから、これもやむを得ないといえばやむを得ない。しかし、明治以来のわが国の文化、思想がなんとなく生気に乏しく、創造性に欠けるのは、エディターシップがながい間、文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。形式的エディターシップの確立が急がれなくてはならない。」(外山滋比古著「ホモ・メンティエンス」みすず書房p172)