大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」を読んで私が思い浮かんだのは、サザエさんの長谷川町子さんのことでした。その家族構成をくらべてみます。
長谷川町子さんは、1920年(大正9年)1月30日生まれ。
1933年(昭和8年)13歳の時に、父死去。母と三人姉妹だけになります。
大橋鎭子さんは、1920年3月10日生まれ。
1930年(昭和5年)小学五年生で父死去。母と三人姉妹だけになります。
ちなみに、町子さんには姉と妹がおりまして、
鎭子さんは、長女でした。鎭子さんの父親が亡くなる際のことが書かれております。
「お父さんのベッドを、祖母、母、私、晴子、芳子で囲んでいました。父は、『鎭子・・・』と、私の名を呼びました。私は父の枕元に近づきました。父は小さく静かな声で、『お父さんは、みんなが大きくなるまで、生きていたかった、でもそれがダメになってしまった。鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒をみてあげなさい』私は、引き受けました、ということを父にわかってもらいたくて、大きな声で、『ハイ、ワカリマシタ』と答えました。そして、みんな息をのむようなおもいで、父を見守っていました。すると、母が、『あっ、お父さんが』と大きな声で叫びました。父は、口から白い泡を出して、苦しそうにして、息がとまったのでした。お医者さまが急いでこられました。『ご臨終です』
私は、そのとき泣きませんでした。そして、父に言われたとおり、母や妹を幸せにしなくては、と思ったのです。いま仕事を続けていて、どうしていいかわからないとき、つらいとき、この病室の風景が目に浮かんで、しっかりしなくてはと思うのです。」(p48)
「宛名が品川とだけでも、私が小学五年のときから戸主になっていて、郵便の宛名は私だったので、郵便局でもすぐわかったのだと思います。」(p79~80)
鎭子25歳。花森安治34歳。時は昭和20年10月なかばでした。
花森さんは鎭子さんの話を聞いて答えます。
「君は親孝行なんだね。ぼくも高等学校の受験のときに、母が受かるようにと、なかなか手に入れにくかった牛乳や玉子を買って食べさせてくれ、いっしょうけんめいに尽くしてくれたけれど、発表を待たずに、肺炎で急に亡くなってしまった。ぼくは母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を、手伝ってあげよう」(p18)
さて、この本の後半に、「暮しの手帖」の編集部のことが語られるなかに、その母親が出てきておりました。
「母はときどき『テストなどで徹夜明けの人に』、と朝ごはんを届けてくれました。おにぎりや色ごはん、ごぼうやにんじんの煮しめなど簡単なものでしたが、それがおいしいと楽しみにしている編集部員もおりました。編集者の家族に病人がいると聞けば、『これで元気になって』と特製のスープを作って持って来てくれることもありました。亡くなるまで『暮しの手帖』を自分のお金で本屋さんから買っていました。そんなですから、『大橋家のおばあちゃん』ではなく、『暮しの手帖のおばあちゃん』と言われていたのです。
編集部というより、『暮しの手帖』を作っている家族、という感じ。会社というより、家庭のよう。あたたかみのある、愉快な場所でした。そんななかで『暮しの手帖』を作ることを、編集部員みんなが、とても大事なことと思っていたのです。・・・・暮らしにこだわりのある『家庭』でした。」(p146~147)
長谷川町子さんが四コマ漫画のサザエさんという家庭を戦後つくりあげたように。
大橋鎭子さんは「暮しの手帖」という家庭を築いていったのでした。
とそんなふうに思える読後感がありました。
長谷川町子さんは、1920年(大正9年)1月30日生まれ。
1933年(昭和8年)13歳の時に、父死去。母と三人姉妹だけになります。
大橋鎭子さんは、1920年3月10日生まれ。
1930年(昭和5年)小学五年生で父死去。母と三人姉妹だけになります。
ちなみに、町子さんには姉と妹がおりまして、
鎭子さんは、長女でした。鎭子さんの父親が亡くなる際のことが書かれております。
「お父さんのベッドを、祖母、母、私、晴子、芳子で囲んでいました。父は、『鎭子・・・』と、私の名を呼びました。私は父の枕元に近づきました。父は小さく静かな声で、『お父さんは、みんなが大きくなるまで、生きていたかった、でもそれがダメになってしまった。鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒をみてあげなさい』私は、引き受けました、ということを父にわかってもらいたくて、大きな声で、『ハイ、ワカリマシタ』と答えました。そして、みんな息をのむようなおもいで、父を見守っていました。すると、母が、『あっ、お父さんが』と大きな声で叫びました。父は、口から白い泡を出して、苦しそうにして、息がとまったのでした。お医者さまが急いでこられました。『ご臨終です』
私は、そのとき泣きませんでした。そして、父に言われたとおり、母や妹を幸せにしなくては、と思ったのです。いま仕事を続けていて、どうしていいかわからないとき、つらいとき、この病室の風景が目に浮かんで、しっかりしなくてはと思うのです。」(p48)
「宛名が品川とだけでも、私が小学五年のときから戸主になっていて、郵便の宛名は私だったので、郵便局でもすぐわかったのだと思います。」(p79~80)
鎭子25歳。花森安治34歳。時は昭和20年10月なかばでした。
花森さんは鎭子さんの話を聞いて答えます。
「君は親孝行なんだね。ぼくも高等学校の受験のときに、母が受かるようにと、なかなか手に入れにくかった牛乳や玉子を買って食べさせてくれ、いっしょうけんめいに尽くしてくれたけれど、発表を待たずに、肺炎で急に亡くなってしまった。ぼくは母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を、手伝ってあげよう」(p18)
さて、この本の後半に、「暮しの手帖」の編集部のことが語られるなかに、その母親が出てきておりました。
「母はときどき『テストなどで徹夜明けの人に』、と朝ごはんを届けてくれました。おにぎりや色ごはん、ごぼうやにんじんの煮しめなど簡単なものでしたが、それがおいしいと楽しみにしている編集部員もおりました。編集者の家族に病人がいると聞けば、『これで元気になって』と特製のスープを作って持って来てくれることもありました。亡くなるまで『暮しの手帖』を自分のお金で本屋さんから買っていました。そんなですから、『大橋家のおばあちゃん』ではなく、『暮しの手帖のおばあちゃん』と言われていたのです。
編集部というより、『暮しの手帖』を作っている家族、という感じ。会社というより、家庭のよう。あたたかみのある、愉快な場所でした。そんななかで『暮しの手帖』を作ることを、編集部員みんなが、とても大事なことと思っていたのです。・・・・暮らしにこだわりのある『家庭』でした。」(p146~147)
長谷川町子さんが四コマ漫画のサザエさんという家庭を戦後つくりあげたように。
大橋鎭子さんは「暮しの手帖」という家庭を築いていったのでした。
とそんなふうに思える読後感がありました。