平凡社「漢詩を読む 1」宇野直人・江原正士著を読了。
といっても軽く読み流した程度。
それでも、手ごたえはあり。
最後に陶淵明の箇所(p325~411)がありますが、
そこだけを読んでも読み応えは十分。
ですが、「詩経」からはじまる詩の歴史的変遷を、時代や政治状況をからめながらの説明がつづくのを、順を追って読む進めば、漢詩の歴史の厚みに、詩のたどる道筋めいたことへと読者の興味はいざなわれてゆくのでした。
たとえば、ちょうど本文の中頃に、三国志の立役者・曹操(そうそう・155~220)が登場する箇所があります。そこに徐幹(じょかん)という人を語ってこうあります。
「政治的な見識が高くて詩人としても優れていたのに、わざと平凡な詩を書いて曹操の目を逃れた、こういう生き方を試みた人は当時、多かったんでしょう。中国の知識人は、日本とは少し違って常に政治の現場とコンタクトがありましたから、生き延びるのも大変だったと思います。」(p240)
こうして、この本のはじまりの「詩経」では、地に足がついた感じがする初期の詩を語って「繰り返しが多いですよね。この歌は職業詩人が書斎で作ったものではなく、農村でみんなが歌い踊って楽しんだもの。繰り返しのリズムは歌いやすく、覚えやすいでしょう。」(p19)「不思議なんですが、『詩経』の歌を読んでいると、気持が大らかになって、歌の中にとけこんでゆくような。そんな力があるんですね。・・・日本で言えば『万葉集』の存在に近いかも知れませんね」(p21)とある。
そして、この本の前半部の最後には、こうも語っているのでした。
「詩といえば、われわれは『詩人が胸にあふれるロマンを書き付ける抒情の文学』というイメージを思い浮かべますが、中国の詩は出発点からちょっと違って、事柄や心を『記録して伝える』要素が強いような気がします。記録文学と言うのかな。後世では杜甫などに顕著です・・・・」(p196)
さて、このあとに曹操が登場するのでした。その人をかたって
「曹操は戦場にいても、閑な時は武器を脇に置いて本を読み、詩を作る人でしたし、その息子たちも、政治や文学にたいへん優秀な才能を持っていました。うち四男の曹植(192~232)は、実は杜甫が出るまでは中国最高の詩人として尊敬されていた大詩人なんです。ところが優秀な息子たちゆえに後継者争いが熾烈になり、彼はそれに巻き込まれてまことに不運な人生を送りました。」(p206)
こうして、この本の中頃からは、政治色と詩との関連として、漢詩が読み解かれてゆくのでした。たとえば詩人であり政治家だった張華(ちょうか・232~300)を取り上げた箇所には、こうあります。
「実際は天下国家のために奔走しましたので、その気になれば詩の中でも、いくらでもそれを論じられたでしょうし、そうしたかったと思うのですが、彼は結社のリーダーで大勢の配下がいます。そんな立場で天下国家を論じる詩を作って睨まれれば、グループのメンバーも殺される可能性があります。だからこちらの方向に進まざるを得なかったのではないか。或いは、彼は王朝交代期の権力闘争やその醜さ、世の移ろいを多く見て来ました。だから、それを今さら詩に持ち込む気になれなかったのかも知れません。ますらおぶりではなく、たおやめぶりの詩ですから・・・・」(p270)
こうして、政治色、地域性、古典としての詩経、論語の影響と、さまざまを勘案しながらの411ページ。最後の陶淵明の詩も「帰去来の辞」の「帰りなん いざ/田園まさにあれんとす」から、いざ帰って農業をし始めた苦労の詩を並べてゆく手際にも、透徹した漢詩理解への水先案内となっております。
漢詩を目で追いながらだと、それなりに時間がかかるのですが、それはそれ、この二人の語り口が、漢詩の歴史の流れを語って飽きさせない見識をみせてくれております。
といっても軽く読み流した程度。
それでも、手ごたえはあり。
最後に陶淵明の箇所(p325~411)がありますが、
そこだけを読んでも読み応えは十分。
ですが、「詩経」からはじまる詩の歴史的変遷を、時代や政治状況をからめながらの説明がつづくのを、順を追って読む進めば、漢詩の歴史の厚みに、詩のたどる道筋めいたことへと読者の興味はいざなわれてゆくのでした。
たとえば、ちょうど本文の中頃に、三国志の立役者・曹操(そうそう・155~220)が登場する箇所があります。そこに徐幹(じょかん)という人を語ってこうあります。
「政治的な見識が高くて詩人としても優れていたのに、わざと平凡な詩を書いて曹操の目を逃れた、こういう生き方を試みた人は当時、多かったんでしょう。中国の知識人は、日本とは少し違って常に政治の現場とコンタクトがありましたから、生き延びるのも大変だったと思います。」(p240)
こうして、この本のはじまりの「詩経」では、地に足がついた感じがする初期の詩を語って「繰り返しが多いですよね。この歌は職業詩人が書斎で作ったものではなく、農村でみんなが歌い踊って楽しんだもの。繰り返しのリズムは歌いやすく、覚えやすいでしょう。」(p19)「不思議なんですが、『詩経』の歌を読んでいると、気持が大らかになって、歌の中にとけこんでゆくような。そんな力があるんですね。・・・日本で言えば『万葉集』の存在に近いかも知れませんね」(p21)とある。
そして、この本の前半部の最後には、こうも語っているのでした。
「詩といえば、われわれは『詩人が胸にあふれるロマンを書き付ける抒情の文学』というイメージを思い浮かべますが、中国の詩は出発点からちょっと違って、事柄や心を『記録して伝える』要素が強いような気がします。記録文学と言うのかな。後世では杜甫などに顕著です・・・・」(p196)
さて、このあとに曹操が登場するのでした。その人をかたって
「曹操は戦場にいても、閑な時は武器を脇に置いて本を読み、詩を作る人でしたし、その息子たちも、政治や文学にたいへん優秀な才能を持っていました。うち四男の曹植(192~232)は、実は杜甫が出るまでは中国最高の詩人として尊敬されていた大詩人なんです。ところが優秀な息子たちゆえに後継者争いが熾烈になり、彼はそれに巻き込まれてまことに不運な人生を送りました。」(p206)
こうして、この本の中頃からは、政治色と詩との関連として、漢詩が読み解かれてゆくのでした。たとえば詩人であり政治家だった張華(ちょうか・232~300)を取り上げた箇所には、こうあります。
「実際は天下国家のために奔走しましたので、その気になれば詩の中でも、いくらでもそれを論じられたでしょうし、そうしたかったと思うのですが、彼は結社のリーダーで大勢の配下がいます。そんな立場で天下国家を論じる詩を作って睨まれれば、グループのメンバーも殺される可能性があります。だからこちらの方向に進まざるを得なかったのではないか。或いは、彼は王朝交代期の権力闘争やその醜さ、世の移ろいを多く見て来ました。だから、それを今さら詩に持ち込む気になれなかったのかも知れません。ますらおぶりではなく、たおやめぶりの詩ですから・・・・」(p270)
こうして、政治色、地域性、古典としての詩経、論語の影響と、さまざまを勘案しながらの411ページ。最後の陶淵明の詩も「帰去来の辞」の「帰りなん いざ/田園まさにあれんとす」から、いざ帰って農業をし始めた苦労の詩を並べてゆく手際にも、透徹した漢詩理解への水先案内となっております。
漢詩を目で追いながらだと、それなりに時間がかかるのですが、それはそれ、この二人の語り口が、漢詩の歴史の流れを語って飽きさせない見識をみせてくれております。