水川隆夫著「漱石と落語」(彩流社)は、手堅く漱石の中の落語を探っており、読み甲斐がありました。ということで、その引用箇所をすこし孫引きしてみます。
「漱石は小学校を卒業後、正則中学校、二松学舎、成立学舎を経て、明治17年の秋に大学予備門に入ったが、その間寄席通いが続いていたことはいうまでもない。成立学舎以来の友人で岡山県出身の橋本左五郎は、漱石に寄席通いを教えられたと、次のように回想している。
田舎から出て来た私が寄席へゆき、講談・落語・義太夫に興味を持つ様になったのは、全く夏目の影響です。それで桃川如燕の鍋島の猫騒動だとか、円朝の牡丹灯籠だとかは、当時幾度聞いても飽きない程になってゐました。夏目は陵潮でしたか、琴陵でしたか、その講談振が大変気に入ってをって、講談の話などをしてをって興に乗って来ると、左り手で扇を持ってパチンパチンやってその真似をしてものです。そうです。夏目は左利きでした。 」(p35)
こうして、水川氏は指摘するのでした。
「漱石は、幼少の頃から漢詩漢文を学ぶとともに落語講談に親しむことによって、漢語や俗語をふくめ日本語の一つ一つに付着している『感情的要素』について、鋭敏な感性を磨いてきた。しかし、英語の場合は、この要素が十分実感できなかった。・・・・・
漱石の真実を尊び、偽善や欺瞞を憎む態度については・・・・・私は、その根底に、彼の江戸っ子気質があったことを付け加えたいと思う。他人の受け売りや知ったかぶりの半可通は江戸っ子の最も軽蔑したものであり、落語の中にも『酢豆腐』はじめ、半可通に対する揶揄や嘲笑がよく現れる。漱石は『全く感じない』西洋の詩を読んで無理に嬉しがっている日本の学者たちの中に、腐ってすっぱくなった豆腐を食べて『どうも乙な味です。』と気取っている『酢豆腐』の若旦那の姿を見たのである。漱石がロンドンで読んだ書物への書きこみや作成したノートや、それをもとに大学で講じた『文学論』の中にも、落語や講釈のことがよく出てくる。・・・・・
漱石は、蔵書『Merry Wives of Windsor』(「ウインザーの陽気な女房たち」)の第三幕第三場に『落語家ノ棺桶ノ中カラモラッテ置ケモラッテ置ケト云フ格ナリ』と感想を書き入れている。」(P61~63)
このくらいにして、水川氏の本の第二章「吾輩は猫である」の時代に触れておきたいのでした。
「小林信彦は、『むかしはよく、「カーテル・ムル』やら『トリストラム・シャンディ』との暗号やら影響が論じられていたが、江戸落語の影響の大きさには、とうてい及ぶまい。』『「猫」に関していえば、江戸落語の要素が作品の根っ子の部分で、英文学は外側にぶら下っている印象を受ける。』と述べ、落語の影響を強調しているが、私も同感であり、『猫』の発想は、主として落語・講釈からきたと考える。
虚子の思い出にあるように、漱石は題名の一つとして『猫伝』を考えていた。『吾輩は猫である』の方を採用してからも、書簡では、もっぱら『猫伝』と称している。この題名と猫を主人公にするという思いつきは、桃川如燕の『百猫伝』からきているのではないかと思われる。・・・漱石自身、『猫』第二において、『吾輩』に『桃川如燕(ももかわじょえん)以後の猫』と言わせている。・・」(P85~86)
ここで水川氏の解釈の自然な流れが味わえる箇所
「ところで、この苦沙弥という名前・・・・
落語に『くしゃみ講釈』がある。これは、ご承知のように、定連が客席から胡椒の粉をあおぎ上げて、講釈師にくしゃみを連発させて困らせる話だが、その動機となったのは、『世辞がない』『大面(おほづら)すぎる』講釈師の高慢な態度や客席で居眠りしていて講釈師に注意され恥をかかされたことに対して腹を立てたからであった。金田夫人も苦沙弥の家へ行って『世辞がない』苦沙弥たちに自尊心を傷つけられ、その『生意気』を懲らしめようとする。車屋の神さんや車夫たちは、苦沙弥の家の垣根の外から『高慢ちきは唐変木(たうへんぼく)だ』などとやじり倒す。私は苦沙弥の名は、落語『くしゃみ講釈』から思いついたものではないかと推定する。」(P108)
あと、これも引用しておかなくちゃ。
「十月下旬、堺利彦が、『猫』上篇の感想を送ってきた。『新刊の書籍を面白く読んだとき、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦』というのが全文である。恐らくこの感想から刺激を受けて、漱石は、『猫』第七に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れた。・・・」(P117)
以上。この本の美味しいところを、摘まんでみました。
「漱石は小学校を卒業後、正則中学校、二松学舎、成立学舎を経て、明治17年の秋に大学予備門に入ったが、その間寄席通いが続いていたことはいうまでもない。成立学舎以来の友人で岡山県出身の橋本左五郎は、漱石に寄席通いを教えられたと、次のように回想している。
田舎から出て来た私が寄席へゆき、講談・落語・義太夫に興味を持つ様になったのは、全く夏目の影響です。それで桃川如燕の鍋島の猫騒動だとか、円朝の牡丹灯籠だとかは、当時幾度聞いても飽きない程になってゐました。夏目は陵潮でしたか、琴陵でしたか、その講談振が大変気に入ってをって、講談の話などをしてをって興に乗って来ると、左り手で扇を持ってパチンパチンやってその真似をしてものです。そうです。夏目は左利きでした。 」(p35)
こうして、水川氏は指摘するのでした。
「漱石は、幼少の頃から漢詩漢文を学ぶとともに落語講談に親しむことによって、漢語や俗語をふくめ日本語の一つ一つに付着している『感情的要素』について、鋭敏な感性を磨いてきた。しかし、英語の場合は、この要素が十分実感できなかった。・・・・・
漱石の真実を尊び、偽善や欺瞞を憎む態度については・・・・・私は、その根底に、彼の江戸っ子気質があったことを付け加えたいと思う。他人の受け売りや知ったかぶりの半可通は江戸っ子の最も軽蔑したものであり、落語の中にも『酢豆腐』はじめ、半可通に対する揶揄や嘲笑がよく現れる。漱石は『全く感じない』西洋の詩を読んで無理に嬉しがっている日本の学者たちの中に、腐ってすっぱくなった豆腐を食べて『どうも乙な味です。』と気取っている『酢豆腐』の若旦那の姿を見たのである。漱石がロンドンで読んだ書物への書きこみや作成したノートや、それをもとに大学で講じた『文学論』の中にも、落語や講釈のことがよく出てくる。・・・・・
漱石は、蔵書『Merry Wives of Windsor』(「ウインザーの陽気な女房たち」)の第三幕第三場に『落語家ノ棺桶ノ中カラモラッテ置ケモラッテ置ケト云フ格ナリ』と感想を書き入れている。」(P61~63)
このくらいにして、水川氏の本の第二章「吾輩は猫である」の時代に触れておきたいのでした。
「小林信彦は、『むかしはよく、「カーテル・ムル』やら『トリストラム・シャンディ』との暗号やら影響が論じられていたが、江戸落語の影響の大きさには、とうてい及ぶまい。』『「猫」に関していえば、江戸落語の要素が作品の根っ子の部分で、英文学は外側にぶら下っている印象を受ける。』と述べ、落語の影響を強調しているが、私も同感であり、『猫』の発想は、主として落語・講釈からきたと考える。
虚子の思い出にあるように、漱石は題名の一つとして『猫伝』を考えていた。『吾輩は猫である』の方を採用してからも、書簡では、もっぱら『猫伝』と称している。この題名と猫を主人公にするという思いつきは、桃川如燕の『百猫伝』からきているのではないかと思われる。・・・漱石自身、『猫』第二において、『吾輩』に『桃川如燕(ももかわじょえん)以後の猫』と言わせている。・・」(P85~86)
ここで水川氏の解釈の自然な流れが味わえる箇所
「ところで、この苦沙弥という名前・・・・
落語に『くしゃみ講釈』がある。これは、ご承知のように、定連が客席から胡椒の粉をあおぎ上げて、講釈師にくしゃみを連発させて困らせる話だが、その動機となったのは、『世辞がない』『大面(おほづら)すぎる』講釈師の高慢な態度や客席で居眠りしていて講釈師に注意され恥をかかされたことに対して腹を立てたからであった。金田夫人も苦沙弥の家へ行って『世辞がない』苦沙弥たちに自尊心を傷つけられ、その『生意気』を懲らしめようとする。車屋の神さんや車夫たちは、苦沙弥の家の垣根の外から『高慢ちきは唐変木(たうへんぼく)だ』などとやじり倒す。私は苦沙弥の名は、落語『くしゃみ講釈』から思いついたものではないかと推定する。」(P108)
あと、これも引用しておかなくちゃ。
「十月下旬、堺利彦が、『猫』上篇の感想を送ってきた。『新刊の書籍を面白く読んだとき、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦』というのが全文である。恐らくこの感想から刺激を受けて、漱石は、『猫』第七に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れた。・・・」(P117)
以上。この本の美味しいところを、摘まんでみました。