和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

カタルシス。

2010-05-11 | 短文紹介
外山滋比古著「エディターシップ」に
「カタルシスは元来、排便を意味する医学用語であるが、鬱積した本能のエネルギーが安全弁のふたを開いて発散するのは排便に似た快感をともなうと考えたのであろう。」(p117)という箇所がありました。

ということで、カタルシス。

外山氏の「知的創造のヒント」には

「知識をどんどんとり入れるためには、まず腹をすかせていなくては話にならない。どんなにおいしい料理を食べさせようとしても、満腹では受け付けない。腹をすかせるには、新陳代謝が行われていることが前提で、糞詰まりではすがすがしい空腹感はおこらない。排泄ということがいかに大切であるか。これは詰め込みの専門家?である現代の教育者にとくと考えてほしい課題である。それを抜きにしてものを考えるのは、便秘人間をつくることにほかならない。いまの世の中には糞詰まりがあまりにも多い。それをもの知りとか、知識人と称しているのは笑止のさたである。知識といやなこととは別だというかもしれないが、入るのはいいが、あまりたまっては困る点では変わりがない。」(講談社現代新書p21)

これについて、外山氏の「日本語の論理」で、気になる箇所。


「・・思想の『体系』もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。」

このあとに、こう続くのでした。

「日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いていて、しっかりした体系の構築を妨げている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。日本語はどうも、俳句や短篇や珠玉のような随筆に見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動をじゃますることがないとは言えない。『ひらめき』をもつには、日本語はなかなか好都合なのである。」

これは、「日本語と創造性」という文にあります。ちなみにその最後にはこうありました。「日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。」


連休のころから、夜寝ていると、咳でむせるようになるので、連休明けに病院に行くと、これは百日咳ですよ。最近は大人の咳の大半がこれなんです、との診断。一週間分の薬をもらってきて。ちゃんと睡眠をとっておりました。そうすると、思い浮かんだのが、上記のカタルシスということでの3冊。寝ていると、案外記憶の海から、泡が浮き上がってくるようにして、つながって出てくるものですね。さてっと、お後が続かないのですが、とりあえずは、書き込んで忘れます(笑)。
コメント
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