和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

第六高女。

2010-05-26 | 短文紹介
読んだ本が、何日かしてから(それが一週間か10日かもしれず)、その本の数行を思い浮かべることってありますね。あれ何でしょうね。今日思い浮かべたのは、大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」の中の言葉でした。1920年(大正9年)3月10日生まれの大橋さんは、昭和7年に女学校の入学試験を受けます。では思い浮かんだ箇所。


「東京府中第六高等女学校。私にとって、ここは『心のふるさと』『育ての親』でした。・・・『第六は、勉強はそっちのけで、体操ばかりしている・・・』と世間で言われていましたが、それが今の私にとって健康のもとになり、大変な宝となりました。九十歳ちかくになりましたが、今も会社に出ています。第六では、一週間に四、五時間は体操の時間がありました。それも、歩くことが健康の要ということで、とにかく歩け、歩け、でした。体操の時間には歩き方の訓練があり、背筋を伸ばして、膝を伸ばして、とくりかえし言われるので、みんな、すっ、すっと歩くのが身に付きます。月に一度は遠足があって、三里(十二キロ)ほど歩かされました。それに年に二度、『適応遠足』といって、全校生徒がいっしょに行動します。これは自分の力に合った距離を選んで歩くのです。年によって、行き先が変わったようですが、私たちのときは、多摩川の土手を歩きました。川崎駅が出発点で、終点は日野。川崎から十里(四十キロ)になります。多摩川の土手を川上に向かってずっといきますと、私鉄がいくつか交わります。途中、二里(八キロ)、六里(二十四キロ)で歩くのをやめて、それぞれ、もよりの目蒲線の多摩川園前駅、小田急線登戸駅から電車に乗って帰ってもいいのです。校長の丸山丈作(じょうさく)先生が思いつかれた方法でした。
丸山丈作校長については、『暮しの手帖』七十七号(昭和39年 1964年)に特集を載せていますが、とにかく生徒が大事、生徒の健康が大事と考えられた先生でした。・・・・」


ああ、そうそう。この『暮しの手帖』七十七号を読みたいと、その時に思ったのを、すっかり忘れていたのが、なんとなく、それで思い浮かんだということなのでした。
コメント
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