大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)を読みました。
その家族構成・父との死別を読んで、私が思い浮かべたのは、サザエさんの長谷川町子でした。
そういえば、長谷川町子さんは1920年1月30日生まれで~1992年5月に亡くなっておられます。ところで大橋鎭子さんはといえば、1920年3月10日生まれで、現在は90歳。
この本のあとがきにあたる箇所には、暮しの手帖社代表取締役横山泰子さんがこう書いております。
「今年三月十日に九十歳となった大橋鎭子は、家でも会社でも昔からずっと『しずこさん』と呼ばれています。九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・」
暮しの手帖の花森安治は昭和53年1月14日の真夜中に亡くなりました。
そしてしばらくて、田宮虎彦氏から手紙が届きます。ちょっとその箇所を引用。
「田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した、心を許しあった友人どうしでした。」
このあとに田宮氏からの手紙を引用してありました。
「花森君があれだけのことができたのは、もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、やはりあなたの協力があったからこそだと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつくお礼を申上げます。・・・」(p216)
この本には、わかりやすい文章で「大橋鎭子の力」がどこにあったのかを、それとなく教えてくれております。まあ、原稿を届ける大橋鎭子さんの姿を見た花森安治氏の言葉も登場します。それは川端康成氏への原稿依頼の件でした(p90~92)。そこが読後、鮮やかな印象として残ります。
まあ、それは読んでのお楽しみ。
ここでは、横山泰子さんの「今日も鎭子さんは出社です」という4ページの文から、すこし引用して紹介にかえておきます。
「以前鎭子さんに『物事は、これって思ったときにパッとやらなきゃダメよ、私なら今日会いに行くわ』と言われた 」
「世間一般でいう偉い人と話すときも、タクシーの運転手さんや近所の人と話すときもまったく同じに、丁寧だけどちょっと親しげな調子で『あなたねえ』と話しかけています。」(p223)
その家族構成・父との死別を読んで、私が思い浮かべたのは、サザエさんの長谷川町子でした。
そういえば、長谷川町子さんは1920年1月30日生まれで~1992年5月に亡くなっておられます。ところで大橋鎭子さんはといえば、1920年3月10日生まれで、現在は90歳。
この本のあとがきにあたる箇所には、暮しの手帖社代表取締役横山泰子さんがこう書いております。
「今年三月十日に九十歳となった大橋鎭子は、家でも会社でも昔からずっと『しずこさん』と呼ばれています。九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・」
暮しの手帖の花森安治は昭和53年1月14日の真夜中に亡くなりました。
そしてしばらくて、田宮虎彦氏から手紙が届きます。ちょっとその箇所を引用。
「田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した、心を許しあった友人どうしでした。」
このあとに田宮氏からの手紙を引用してありました。
「花森君があれだけのことができたのは、もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、やはりあなたの協力があったからこそだと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつくお礼を申上げます。・・・」(p216)
この本には、わかりやすい文章で「大橋鎭子の力」がどこにあったのかを、それとなく教えてくれております。まあ、原稿を届ける大橋鎭子さんの姿を見た花森安治氏の言葉も登場します。それは川端康成氏への原稿依頼の件でした(p90~92)。そこが読後、鮮やかな印象として残ります。
まあ、それは読んでのお楽しみ。
ここでは、横山泰子さんの「今日も鎭子さんは出社です」という4ページの文から、すこし引用して紹介にかえておきます。
「以前鎭子さんに『物事は、これって思ったときにパッとやらなきゃダメよ、私なら今日会いに行くわ』と言われた 」
「世間一般でいう偉い人と話すときも、タクシーの運転手さんや近所の人と話すときもまったく同じに、丁寧だけどちょっと親しげな調子で『あなたねえ』と話しかけています。」(p223)