大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」に
昭和19年のことが出ておりました(p75~)
「昭和19年になると、食料はすべて配給制で、その日の食べ物にも事欠くようになっていました。秋のことでした。父の故郷の岐阜県養老郡時村では、父の兄と弟の二軒の人たちが、私たちのことを心配して、せめてお米でもあげるから来なさい、ということになり、私と妹の晴子の二人で行くことになりました。汽車とバスを乗り継いで行きます。・・・翌日、両方の家から、それぞれリュックに一杯のお米を貰い、おにぎりの弁当を持てるだけ持たせてもらって、帰りのバスに乗りました。バスが隣の村のバス停に着いたとき、バスの入口で『しずちゃん、しずちゃん』と叫ぶような声がします。なんと、志津伯母さんがいて、大きなお米の袋を持って『伯父さんに内緒、お母さんにあげて・・・』と叫んで、手渡してくれました。この日のことを思うと、もう六十年以上も前のことなのに、涙がにじみます。関ヶ原の駅で、東京行きの列車に乗り、なんとか座ることができました。だんだん人が多くなって、名古屋を過ぎたころには、いわゆる『すし詰め列車』になってしまいました。・・・・・やっと列車は横浜をすぎて鶴見まで来ました。ところが『列車は鶴見までです。空襲があって、列車は東京まで行けません。あとは歩いてください』というアナウンスがありました。私たちは、お米と野菜のリュックを背負って、線路の枕木をひとつひとつ踏みしめるようにして歩きました。なんとか川崎まで来ましたが、そこには多摩川が大きく横たわっています。鉄橋を渡らなければなりません。枕木と枕木の間には、多摩川の水が青く見えます。足を踏みはずしたり、お米が重くて尻餅をついたりしたら大変です。・・・でも行列になていますから、前へ進まなければなりません。渡りきったときは、うれしかったです。お金より大事なお米や野菜は無事でした。大井鹿島町のわが家には、夕方、無事に帰りつきました。・・・」(~p77)
それにしても、とここまで読んできて思うのは、リュックに一杯のお米と、次には大きなお米の袋までもらって帰ったことでした。それも鶴見から歩いて帰りつくまで、どのくらいの距離があったのでしょう?
さて、なんでこんなことを思い出したかというと、
1964年「暮しの手帖」77号が古本屋さんから届いたからなのでした。
そこに掲載されている丸山丈作氏の語り「東京府立第六高等女学校」という19ページの文を読んだのでした。それは90歳になられた第六高等女学校校長だった丸山氏が、女学校を回顧しておられるのです。そこに気になる箇所があったのでした。
「新しい学校ができて、はじめて私が校長になった年の九月一日に、関東大震災がありました。あの震災は私にもいろんな意味でショックでしたが、なかでも、強く心を打たれたのは、被服賞廠跡で何万人という人が死んだという、あのことです。その人たちのなかには、もう少し歩けば上野の山なりなんなり、安全なところへ避難できたのに、疲れきってしまって、つい手近な被服廠跡へ逃げこんで、そうしてそこでみんな焼け死んだのです。
それをみて、女だから、歩かないでいいという、これまでの教育はまちがっていた、と心底からそうおもいました。こういうとき、日ごろから足を鍛えておけば、あの被服廠で死んだたくさんの女の人だって、死ななくてすんだにちがいない、うちの学校でもなんとかして足を鍛える訓練をしなければならないと、そう感じたのです。・・・・」
そして、その足を鍛える訓練のようすが、次に語られておりました。
「大宮の氷川神社まで、距離にしておよそ二五、六キロ、これを歩く遠足をやりました。年一回ということにして、つぎの年は厚木へゆき、そのつぎは藤沢へ行きました。・・毎年一回のことだから、コースをきめて歩くようにしたほうがいいとおもったんです。それにはどこがよかろうか、といろいろ考えた末、多摩川の土手がよかろう、ということになりました。というのはここだと途中にいくつも、東横線だとか、玉電とか小田急だとか、京王線だとか、何本も電車が通っている。だから、途中までしか歩けないこどもも、その電車の通っているところを一つの区切りにしておけば、そこから電車に乗って帰ることができる、そういう便利さがあったからです。そこで多摩川園を起点にして、まず上流のほうへむかって土手を歩いてゆく。そしてむこうへ行きついたら、こんどは反対側の土手をまた多摩川園まで帰ってくる。その往復の距離がちょうど十里になるように、途中でわざわざ寄り道したりして、コースをきめました。そして途中の区切りとしては、三里、五里、七里、という地点を作って、十里歩けるとおもうものは十里歩きなさい、しかし、どうも無理だという人は、自分の足の力に応じて、三里なり、五里なり、七里をえらびなさい、ということにしたのです。・・・これはずっと毎年つづけてきたものです。
一口に十里といっても四十キロですからね、これは女の子でなくても、そうラクではなかったですよ。最初の年は十里を歩きとおした子が、全校千二百人のうちの三百人たらずでした。しかしえらいもので、のちには八百人以上の生徒が、十里の道を歩きとおしましたからね。訓練というものはやはりありがたいものだとおもいます。のちには年二回にしました。朝七時に集合してそれから歩きだすんですが、十里歩くと夕方の五時になりましたね。・・・・・もともと私は山へ登るのが好きで、毎年槍ケ岳などへは生徒を連れて登ってました・・・・歩くということではそのほかにもいろいろやりました。たとえば、寒中に目黒駅を起点に、洗足から丸子の渡し、それから池上の本門寺、大森駅というコースで、耐寒訓練というのもやりましたし、それから月に一回、やはり歩く遠足をやりました。まあ夏休みとかそういうときはできませんから、年にするとこれが十回、少ない年でも九回はやったわけです。・・・
戦争がおわってからうちの卒業生に会うと、この歩く訓練のことが話に出ましてね、疎開先や買出しなどで田舎へいく、これから相当なものを背負って駅までいかなければならない。道のりを聞くと二里半だとか五里だとかいう。たいていの女の人ならまいってしまうんだけども私たちはあの適応遠足のおかげで二里半といえば、ああ、あれくらいだ、五里といえばあれくらいだという見当がつくし、それならじゅうぶん歩けるという自信もあった、それでずいぶん助かった、そういって感謝されたものです。しかしいちばん感謝しなければならないのはこの私かもしれません。というのは、九十のこの年になっても、まだ立派に毎年歩けるんですから、これもあのときの十里を歩き通した訓練のおかげだろうとおもっています。・・・」
さてっと、大橋鎭子氏は、今年の三月十日で九十歳だそうです。
横山泰子さんによると「九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・今でも、週末にデパートや銀座に出かけると、人だかりのしているところには必ず近づき、『何をやっているんですか』『あなた、何がおもしろいの』と尋ね回る、自称『タネさがし』に励んでいます。」(「暮しの手帖」とわたし・p220)
昭和19年のことが出ておりました(p75~)
「昭和19年になると、食料はすべて配給制で、その日の食べ物にも事欠くようになっていました。秋のことでした。父の故郷の岐阜県養老郡時村では、父の兄と弟の二軒の人たちが、私たちのことを心配して、せめてお米でもあげるから来なさい、ということになり、私と妹の晴子の二人で行くことになりました。汽車とバスを乗り継いで行きます。・・・翌日、両方の家から、それぞれリュックに一杯のお米を貰い、おにぎりの弁当を持てるだけ持たせてもらって、帰りのバスに乗りました。バスが隣の村のバス停に着いたとき、バスの入口で『しずちゃん、しずちゃん』と叫ぶような声がします。なんと、志津伯母さんがいて、大きなお米の袋を持って『伯父さんに内緒、お母さんにあげて・・・』と叫んで、手渡してくれました。この日のことを思うと、もう六十年以上も前のことなのに、涙がにじみます。関ヶ原の駅で、東京行きの列車に乗り、なんとか座ることができました。だんだん人が多くなって、名古屋を過ぎたころには、いわゆる『すし詰め列車』になってしまいました。・・・・・やっと列車は横浜をすぎて鶴見まで来ました。ところが『列車は鶴見までです。空襲があって、列車は東京まで行けません。あとは歩いてください』というアナウンスがありました。私たちは、お米と野菜のリュックを背負って、線路の枕木をひとつひとつ踏みしめるようにして歩きました。なんとか川崎まで来ましたが、そこには多摩川が大きく横たわっています。鉄橋を渡らなければなりません。枕木と枕木の間には、多摩川の水が青く見えます。足を踏みはずしたり、お米が重くて尻餅をついたりしたら大変です。・・・でも行列になていますから、前へ進まなければなりません。渡りきったときは、うれしかったです。お金より大事なお米や野菜は無事でした。大井鹿島町のわが家には、夕方、無事に帰りつきました。・・・」(~p77)
それにしても、とここまで読んできて思うのは、リュックに一杯のお米と、次には大きなお米の袋までもらって帰ったことでした。それも鶴見から歩いて帰りつくまで、どのくらいの距離があったのでしょう?
さて、なんでこんなことを思い出したかというと、
1964年「暮しの手帖」77号が古本屋さんから届いたからなのでした。
そこに掲載されている丸山丈作氏の語り「東京府立第六高等女学校」という19ページの文を読んだのでした。それは90歳になられた第六高等女学校校長だった丸山氏が、女学校を回顧しておられるのです。そこに気になる箇所があったのでした。
「新しい学校ができて、はじめて私が校長になった年の九月一日に、関東大震災がありました。あの震災は私にもいろんな意味でショックでしたが、なかでも、強く心を打たれたのは、被服賞廠跡で何万人という人が死んだという、あのことです。その人たちのなかには、もう少し歩けば上野の山なりなんなり、安全なところへ避難できたのに、疲れきってしまって、つい手近な被服廠跡へ逃げこんで、そうしてそこでみんな焼け死んだのです。
それをみて、女だから、歩かないでいいという、これまでの教育はまちがっていた、と心底からそうおもいました。こういうとき、日ごろから足を鍛えておけば、あの被服廠で死んだたくさんの女の人だって、死ななくてすんだにちがいない、うちの学校でもなんとかして足を鍛える訓練をしなければならないと、そう感じたのです。・・・・」
そして、その足を鍛える訓練のようすが、次に語られておりました。
「大宮の氷川神社まで、距離にしておよそ二五、六キロ、これを歩く遠足をやりました。年一回ということにして、つぎの年は厚木へゆき、そのつぎは藤沢へ行きました。・・毎年一回のことだから、コースをきめて歩くようにしたほうがいいとおもったんです。それにはどこがよかろうか、といろいろ考えた末、多摩川の土手がよかろう、ということになりました。というのはここだと途中にいくつも、東横線だとか、玉電とか小田急だとか、京王線だとか、何本も電車が通っている。だから、途中までしか歩けないこどもも、その電車の通っているところを一つの区切りにしておけば、そこから電車に乗って帰ることができる、そういう便利さがあったからです。そこで多摩川園を起点にして、まず上流のほうへむかって土手を歩いてゆく。そしてむこうへ行きついたら、こんどは反対側の土手をまた多摩川園まで帰ってくる。その往復の距離がちょうど十里になるように、途中でわざわざ寄り道したりして、コースをきめました。そして途中の区切りとしては、三里、五里、七里、という地点を作って、十里歩けるとおもうものは十里歩きなさい、しかし、どうも無理だという人は、自分の足の力に応じて、三里なり、五里なり、七里をえらびなさい、ということにしたのです。・・・これはずっと毎年つづけてきたものです。
一口に十里といっても四十キロですからね、これは女の子でなくても、そうラクではなかったですよ。最初の年は十里を歩きとおした子が、全校千二百人のうちの三百人たらずでした。しかしえらいもので、のちには八百人以上の生徒が、十里の道を歩きとおしましたからね。訓練というものはやはりありがたいものだとおもいます。のちには年二回にしました。朝七時に集合してそれから歩きだすんですが、十里歩くと夕方の五時になりましたね。・・・・・もともと私は山へ登るのが好きで、毎年槍ケ岳などへは生徒を連れて登ってました・・・・歩くということではそのほかにもいろいろやりました。たとえば、寒中に目黒駅を起点に、洗足から丸子の渡し、それから池上の本門寺、大森駅というコースで、耐寒訓練というのもやりましたし、それから月に一回、やはり歩く遠足をやりました。まあ夏休みとかそういうときはできませんから、年にするとこれが十回、少ない年でも九回はやったわけです。・・・
戦争がおわってからうちの卒業生に会うと、この歩く訓練のことが話に出ましてね、疎開先や買出しなどで田舎へいく、これから相当なものを背負って駅までいかなければならない。道のりを聞くと二里半だとか五里だとかいう。たいていの女の人ならまいってしまうんだけども私たちはあの適応遠足のおかげで二里半といえば、ああ、あれくらいだ、五里といえばあれくらいだという見当がつくし、それならじゅうぶん歩けるという自信もあった、それでずいぶん助かった、そういって感謝されたものです。しかしいちばん感謝しなければならないのはこの私かもしれません。というのは、九十のこの年になっても、まだ立派に毎年歩けるんですから、これもあのときの十里を歩き通した訓練のおかげだろうとおもっています。・・・」
さてっと、大橋鎭子氏は、今年の三月十日で九十歳だそうです。
横山泰子さんによると「九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・今でも、週末にデパートや銀座に出かけると、人だかりのしているところには必ず近づき、『何をやっているんですか』『あなた、何がおもしろいの』と尋ね回る、自称『タネさがし』に励んでいます。」(「暮しの手帖」とわたし・p220)