和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

これに限ります。

2010-05-15 | 古典
渡部昇一著「楽しい読書生活」を読んでいたら、
恩師の佐藤順太先生のエピソードが出てくる箇所がありました。

「順太先生をお訪ねしたとき、「『伊勢物語』を奨められたので読みました」といったら、「『伊勢物語』を読むなら、キミ、藤井高尚だよ」とおっしゃって、藤井高尚の木版本を出してこられました。「『伊勢物語』はこれに限ります」といわれるので、その木版本のなかから一冊お借りして無理して読んだことがあります。読んでみると、江戸時代の注釈というのはもの凄い。五、六十年前のことですから細かいことはほとんど忘れてしまいましたけれども、あまりにもおかしかったのでいまでも覚えているのは・・・」(p171)

そういえば、渡部昇一・谷沢永一著「読書談義」で、
谷沢氏の言葉にこんなのがありました。

「さきほどの、『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でして、釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。・・・
ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ない・・」


さてっと、以前読んだその「読書談義」で藤井高尚の「伊勢物語」というのは名前で覚えていたのですが、古本でもみつからない。みつからないから忘れておりました。そうしてですね。今度また「楽しい読書生活」で藤井高尚の名前が出てきたので、ネット上の古本検索をしたら、何とあったのでした(むろん復刻版の本)。さっそく注文。けれどすぐ読まないだろうなあ。でも手にすることができる。ということで、私みたいな鈍感な読者は、繰り返し語ってくださると大変ありがたいのでした。そうして、あの藤井高尚注釈の「伊勢物語」が手もとにあるのでした。残念なことは、まだ読んでいないということ。

そうそう。
そういえば、鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)にも「これだ」という箇所が、ちょこちょこと登場するのでした。
たとえばこんな箇所。

「八十一歳のもうろくが手伝っている。十九歳のころだったら、そのころ出会ったマシースンの評価どおり、アメリカ文学最高の作品は、まず『モウビー・ディック』(白鯨)としたかもしれない。しかし八十一歳になると、もうろくの中で、佐々木邦訳『ハックルベリイの冒険』をあげるのをためらいはしない。埴谷雄高は二十世紀最高の作品としてプルーストの『失われた時を求めて』を推したが、私の中ではそれらにも押し負けない。」(p45)
コメント (2)
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