足立倫行著「妖怪と歩く 評伝・水木しげる」(文藝春秋)に
文庫本「ゲェテとの対話(上・中・下)」(エッケルマン著、亀尾英四郎訳)について語った箇所がありました。
「『ゲーテを読んでたのは十八か十九の時です。その頃は哲学書を読むのが若い者の間ではやっとたんですよ。いずれ兵隊にとられて死ぬるかもしれんってことでね』・・・ゲーテ観はぜひとも聞いておきたかった。『私に師匠はいない』と公言している水木が、折に触れて引用するのがゲーテの言葉だった。戦争に行く前に岩波文庫の『ゲェテとの対話』を何回も読んで暗記したのだという。ゲーテの言葉だけではなく、その思想や生活を批判したり讃美したりすることも少なくなかった。」(p264)
「八十二歳で死んだゲーテの晩年八年間の言動を、崇拝者である貧乏詩人ヨハン・ペーター・エッカーマンが忠実に記録した書物である。『気に入ったんです。楽しそうだし、面白い男だと思ったんです。偉人や著名人というと、とかく金のことをバカにするわけですが、ゲーテは金の力というものをよく心得ていて、【問題は、困らぬだけの金をつくることだ】って言うんです。・・・これはいい、見習わなきゃいかんと思いましたね』」(p266)
「『イタリア旅行もそうですね』
『そう、恋人のシュタイン夫人にも知らせないでパッと行く。そういうね、パッパッと判断して行動するところも、大いに気に入ったわけです。これ式で人生やってゆくのもええなァ、と思ったわけです』」(p268)
「『しかしね、ゲーテは尊敬ばかりできる男でもないんです』
今度は、にこやかに水木は微笑んだ。
『戦争が起こると自分の息子だけ戦場に出させまいとして、あれこれ工作したりね。晩年になって、詩作だけやっとればよかったとむやみに悔やんだりね。第一、エッカーマンに対して過酷でしょ?あれだけの仕事やらせときながら、給料も払わんのです。そのためにエッカーマンは、十何年も婚約者と結婚できんかったわけですからね』
ゲーテがエッカーマンに対して冷淡だったことは多くのゲーテ研究書が指摘している。・・・
『だから、ゲーテの生き方をそっくり真似する必要はないわけです。面白そうなところだけ参考にすればいい』水木は再び声を上げて笑った。」(p272~273)
そういえば、田中美知太郎著「時代と私」(文藝春秋)に、こんな箇所がありました。
「エッケルマンの『ゲーテとの対話』の訳者である亀尾さんは、終戦の頃やみの食料を買ふことを知らないで、栄養失調のためなくなつたやうな話を聞いたことがある。」(p260)
栄養失調といえば、最近読んだ大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に
「前の年(昭和二十二年)の十月でしたが、当時『人をさばく裁判官がヤミをしてはならない』と、配給生活を守りぬき、栄養失調で死んだ東京地裁の山口良忠判事のニュースが騒がれていました。私は、裁判所の受付に、山口判事のような裁判官に差し上げてくださいと、玉子を預けようとしたのですが、受け取ってくれません。・・結局、最高裁判所長官室に案内されました。もう一度、『これは買ったものではございません。私のうちのニワトリが生んだ玉子です。山口判事のような方がいらしたら、差し上げてください』と、三淵忠彦長官の机の上に玉子を取り出しました。玉子は二十四個ありました。長官は何度もうなずき、その玉子を、過労と栄養不足のためにたおれ、休職している青年判事の家に届けてくださったのです。それから二年後・・・」(p93~94)
おっと、話がそれてゆきます。
水木さんは戦後すぐどうしていたか。
「水木が帰国後東京で過ごした数年間は、・・傷痍軍人不遇時代だった。国立相模原病院で左腕の再手術を受けた後の昭和21年から24年にかけて、闇米の買い出し屋、病院直属の染物工場の下絵職人、鮮魚の配給業、輪タク(自転車に客席を付けた簡便タクシー)屋の親方など各種の職業を転々とした。・・・この間水木は、傷痍軍人の団体である新生会に加わり、折に触れて行動を共にしている。・・・」(「妖怪と歩く」p191)
ところで、どういうわけか、「ゲーテとの対話」を私も十代の頃に面白いと思って読んでいたことがあります。けれど内容はまったく覚えてない(笑)。あの文庫本どこにあるかなあ。
文庫本「ゲェテとの対話(上・中・下)」(エッケルマン著、亀尾英四郎訳)について語った箇所がありました。
「『ゲーテを読んでたのは十八か十九の時です。その頃は哲学書を読むのが若い者の間ではやっとたんですよ。いずれ兵隊にとられて死ぬるかもしれんってことでね』・・・ゲーテ観はぜひとも聞いておきたかった。『私に師匠はいない』と公言している水木が、折に触れて引用するのがゲーテの言葉だった。戦争に行く前に岩波文庫の『ゲェテとの対話』を何回も読んで暗記したのだという。ゲーテの言葉だけではなく、その思想や生活を批判したり讃美したりすることも少なくなかった。」(p264)
「八十二歳で死んだゲーテの晩年八年間の言動を、崇拝者である貧乏詩人ヨハン・ペーター・エッカーマンが忠実に記録した書物である。『気に入ったんです。楽しそうだし、面白い男だと思ったんです。偉人や著名人というと、とかく金のことをバカにするわけですが、ゲーテは金の力というものをよく心得ていて、【問題は、困らぬだけの金をつくることだ】って言うんです。・・・これはいい、見習わなきゃいかんと思いましたね』」(p266)
「『イタリア旅行もそうですね』
『そう、恋人のシュタイン夫人にも知らせないでパッと行く。そういうね、パッパッと判断して行動するところも、大いに気に入ったわけです。これ式で人生やってゆくのもええなァ、と思ったわけです』」(p268)
「『しかしね、ゲーテは尊敬ばかりできる男でもないんです』
今度は、にこやかに水木は微笑んだ。
『戦争が起こると自分の息子だけ戦場に出させまいとして、あれこれ工作したりね。晩年になって、詩作だけやっとればよかったとむやみに悔やんだりね。第一、エッカーマンに対して過酷でしょ?あれだけの仕事やらせときながら、給料も払わんのです。そのためにエッカーマンは、十何年も婚約者と結婚できんかったわけですからね』
ゲーテがエッカーマンに対して冷淡だったことは多くのゲーテ研究書が指摘している。・・・
『だから、ゲーテの生き方をそっくり真似する必要はないわけです。面白そうなところだけ参考にすればいい』水木は再び声を上げて笑った。」(p272~273)
そういえば、田中美知太郎著「時代と私」(文藝春秋)に、こんな箇所がありました。
「エッケルマンの『ゲーテとの対話』の訳者である亀尾さんは、終戦の頃やみの食料を買ふことを知らないで、栄養失調のためなくなつたやうな話を聞いたことがある。」(p260)
栄養失調といえば、最近読んだ大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に
「前の年(昭和二十二年)の十月でしたが、当時『人をさばく裁判官がヤミをしてはならない』と、配給生活を守りぬき、栄養失調で死んだ東京地裁の山口良忠判事のニュースが騒がれていました。私は、裁判所の受付に、山口判事のような裁判官に差し上げてくださいと、玉子を預けようとしたのですが、受け取ってくれません。・・結局、最高裁判所長官室に案内されました。もう一度、『これは買ったものではございません。私のうちのニワトリが生んだ玉子です。山口判事のような方がいらしたら、差し上げてください』と、三淵忠彦長官の机の上に玉子を取り出しました。玉子は二十四個ありました。長官は何度もうなずき、その玉子を、過労と栄養不足のためにたおれ、休職している青年判事の家に届けてくださったのです。それから二年後・・・」(p93~94)
おっと、話がそれてゆきます。
水木さんは戦後すぐどうしていたか。
「水木が帰国後東京で過ごした数年間は、・・傷痍軍人不遇時代だった。国立相模原病院で左腕の再手術を受けた後の昭和21年から24年にかけて、闇米の買い出し屋、病院直属の染物工場の下絵職人、鮮魚の配給業、輪タク(自転車に客席を付けた簡便タクシー)屋の親方など各種の職業を転々とした。・・・この間水木は、傷痍軍人の団体である新生会に加わり、折に触れて行動を共にしている。・・・」(「妖怪と歩く」p191)
ところで、どういうわけか、「ゲーテとの対話」を私も十代の頃に面白いと思って読んでいたことがあります。けれど内容はまったく覚えてない(笑)。あの文庫本どこにあるかなあ。