和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

八甲田山雪中遭難。

2012-07-01 | 短文紹介
新田次郎著「八甲田山死の彷徨」(新潮社)をはじめて読む。

明治35年(1902年)の、陸軍の行軍遭難事故を
昭和46年(1971年)に、新田次郎が書き上げるのでした。

雪の八甲田をめざす、弘前第31聯隊と青森第5聯隊の行軍を追いながら、行軍遭難事故を明らかにしてゆくのでした。
ここでは、終章から引用。

「陸軍省は遭難事故発生の直後、遭難事件取調委員会を設け九名の委員を任命した。・・・
取調委員会の委員は急遽青森に赴いて事件の調査に当ったが、委員会としての正式発表は最後まで行われなかった。従って何等の公式決定事項を見ずして解散したものと見られている。だが委員会はすることだけはちゃんとやった。公式発表はしなかったけれども、数項目についての意見を陸軍大臣に上申した。・・・」

「31聯隊雪中行軍隊の輝かしい業績は、5聯隊の遭難の陰に隠れたままで終った。徳島隊の成功は当時5聯隊の遭難を批判する材料として時折使用されたに過ぎなかった。国民の多くは、31聯隊雪中行軍隊のことも徳島大尉の名も知らなかった。
徳島隊を案内した熊之沢の案内人の七人は、徳島大尉に絶対言うなと口止めされたまま、長い間、沈黙を守っていたが、昭和5年になって苫米地吉重氏によって初めて事実が明らかにされた。『八甲田山麓雪中行軍秘話』がこれである。七人の案内人の一人が、もう話してもいいだろうと言って口述したのを収録したものであった。これら七人の案内者のほとんどは凍傷で手の指や足の指が曲り、農業や山仕事をするのに不自由な思いをした。・・・」

どうしても、東日本大震災の政府対応の顛末を思い浮かべながらの読書となりました。
コメント
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