尼崎安四の詩「死体」を読んでから、
石井光太著「遺体」(新潮社)を読みました。
「遺体」の最後には「取材を終えて」という4ページほどの文がありました。
そこから引用。
「釜石市を舞台にしたのは、町の半分が被災を免れて残っていたことが大きい。陸前高田など町ごと壊滅した場所では、遺体捜索や安置所の管理は市外から派遣された人々が行っていることが多く、彼らはその土地の地理や方言すらわからないことがある。だが、釜石では死者・行方不明者千人以上を出したにもかかわらず、町の機能の半分が津波の直接的な被害を受けずに残ったことにより、同じ市内に暮らす人々が隣人たちの遺体を発見し、運び、調べ、保管することになった。私はそこにこそ、震災によって故郷が死骸だらけとなったという事実を背負って生きていこうとする人間の姿があるのではないかと考えた。遺体という生身のものを扱うことでそれはもっとはっきりしてくる。」(p262)
「遺体」は釜石市の遺体処理を丁寧に時系列で追っておられ、圧倒されるものがあります。
ここでは、話題をかえて、
岩手県陸前高田の佐藤フミ子さんのことを書きます。
その著書「つなみ 風花(かざはな)胡桃の花穂(はなほ)」(凱風社)の和歌が思い浮かぶのでした。
大波に呑まれて消えし息(こ)の為に
白隠禅師の和讃誦(ず)すかな
遺体確認に一人で行くと
男孫 辛い役目は自分丈(だけ)がと
父発見の場所に花束供えおる
孫の背中のこきざみにふるう
花巻避難所で
二百番目の遺体整(ととの)へ
死化粧ほどこせしとふ 納棺師若し三十八才
納棺師笹原瑠似子(ささはらるいこ)氏こそ尊けれ
四百体もの 事をなし終へりと
佐藤フミ子さんは昭和3年生まれ、83歳。
編集部による、フミ子さんの紹介文にこうあります。
「3月11日の地震のときは、浜辺で若い人たちとワカメの芯抜き作業をしていたが、夫が軽トラックで迎えにきてくれた。一人ではとても逃げ切れなかったと思う。二人一緒に避難したが、夫は息子が自分たちを捜しに家へ戻って流されたことを苦にしており、息子の位牌を見ては涙を流していた。そして避難所暮らしの間に体調を崩し、2011年11月1日12時に他界した。」(p91)
「息子が自分たちを捜しに家へ戻って流された」
という箇所を読むと、親子が逆になりますが、
方丈記の一節を、思い浮かべます。
「・・・・必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを不知(しらず)して、いとけなき子の、なほ乳をすひつつ臥せるなどもありけり。仁和寺(にんわじ)に隆暁法印(りゅうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も不知死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。」
石井光太著「遺体」も最後の方に、住職が出てしめくくられてゆくのでした。
石井光太著「遺体」(新潮社)を読みました。
「遺体」の最後には「取材を終えて」という4ページほどの文がありました。
そこから引用。
「釜石市を舞台にしたのは、町の半分が被災を免れて残っていたことが大きい。陸前高田など町ごと壊滅した場所では、遺体捜索や安置所の管理は市外から派遣された人々が行っていることが多く、彼らはその土地の地理や方言すらわからないことがある。だが、釜石では死者・行方不明者千人以上を出したにもかかわらず、町の機能の半分が津波の直接的な被害を受けずに残ったことにより、同じ市内に暮らす人々が隣人たちの遺体を発見し、運び、調べ、保管することになった。私はそこにこそ、震災によって故郷が死骸だらけとなったという事実を背負って生きていこうとする人間の姿があるのではないかと考えた。遺体という生身のものを扱うことでそれはもっとはっきりしてくる。」(p262)
「遺体」は釜石市の遺体処理を丁寧に時系列で追っておられ、圧倒されるものがあります。
ここでは、話題をかえて、
岩手県陸前高田の佐藤フミ子さんのことを書きます。
その著書「つなみ 風花(かざはな)胡桃の花穂(はなほ)」(凱風社)の和歌が思い浮かぶのでした。
大波に呑まれて消えし息(こ)の為に
白隠禅師の和讃誦(ず)すかな
遺体確認に一人で行くと
男孫 辛い役目は自分丈(だけ)がと
父発見の場所に花束供えおる
孫の背中のこきざみにふるう
花巻避難所で
二百番目の遺体整(ととの)へ
死化粧ほどこせしとふ 納棺師若し三十八才
納棺師笹原瑠似子(ささはらるいこ)氏こそ尊けれ
四百体もの 事をなし終へりと
佐藤フミ子さんは昭和3年生まれ、83歳。
編集部による、フミ子さんの紹介文にこうあります。
「3月11日の地震のときは、浜辺で若い人たちとワカメの芯抜き作業をしていたが、夫が軽トラックで迎えにきてくれた。一人ではとても逃げ切れなかったと思う。二人一緒に避難したが、夫は息子が自分たちを捜しに家へ戻って流されたことを苦にしており、息子の位牌を見ては涙を流していた。そして避難所暮らしの間に体調を崩し、2011年11月1日12時に他界した。」(p91)
「息子が自分たちを捜しに家へ戻って流された」
という箇所を読むと、親子が逆になりますが、
方丈記の一節を、思い浮かべます。
「・・・・必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを不知(しらず)して、いとけなき子の、なほ乳をすひつつ臥せるなどもありけり。仁和寺(にんわじ)に隆暁法印(りゅうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も不知死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。」
石井光太著「遺体」も最後の方に、住職が出てしめくくられてゆくのでした。