マーティン・ファクラー著「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)に「遺体の写真」をとりあげた箇所がありました。
そこを引用してはじめます。
「ニューヨーク・タイムズは、佐々木康(こう)さんや深田志穂さんをはじめとするプロのカメラマンと一緒に被災地取材に入り、震災被害のすさまじさや被災者の悲しみを伝える多くの写真を掲載した。そのなかには、被災地のさまざまな現場で撮影した遺体の写真も含まれている。日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているのか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた。
こうした写真に対し、日本人からネット上で批判の声が上がったことは承知している。当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めようという意図などまったくない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない。
私は被災地で数知れない遺体を見た。それは津波に流されたのだろう、鉄の屋根の上からぶら下がっていたりと、どれもがおよそ想像もつかないシチュエーションにおける悲しい遭遇だった。自分で選んだジャーナリストという仕事とはいえ、そうした光景を目にするたび、胸に、何か苦く重いものがずしりとのしかかった。つい数日前まで東京の平和な光景に見慣れていた私にとって、これが同じ国の出来事とはとても思えなかった。」(p31~32)
ここで、
「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。」とあります。そうなんだ、テレビドラマの刑事物や検死官物などで、ドラマの中での死体は、毎回のように出てくる。あれは、その反動なのかと、思いつきます。
さて、「遺体の写真」ではないのですが、
私は、「遺体の詩」を引用させていただきます。
死人 尼崎安四
死人は石のやうに静かである
月の光が外まで来てとまつてゐる
もうそこからは透射できない別の領域があるかのやうに
白い顔は歯を噛んで空の寂寥をみつめ
尖つた鼻をいよいよ細く尖らしてゐる
月に照らされて応へようともせぬ眼窠
近づくほど闇を奥に拡げてゐるうつろ
私たちが死の中まで持ち込まうとした愛、信仰、歓び
生の日の美しいそれら一切のものは
今、死とどんなつながりを持つてゐるのか
死人はもはや私たちの問に答へようとはしない
私たちの愛の呼声にさへ答へようとはしない
埋もれた泥の中から静に手足を抜き出して
頑に 外からの月の光を拒んでゐる
これは、「定本尼崎安四詩集」(彌生書房)から引用。
この詩集には「尼崎安四年譜」があり、それによると詩人は
大正2(1913)年生まれ昭和27(1952)年死去。満38歳。
戦争に行っております。
昭和16年に野戦高射砲四十四大隊に二等兵として入営。
満州牡丹江・海浪(ハイロン)。南洋パラオ。フィリピンのダバオ。ボルネオのタラカン、バリクパパン。ジャワ本島。チモール島クーパン。西部ニューギニアのカイマナ。オーストラリア北部ケイ群島のワリリル、ラングール。
昭和20年32歳ラングールにて終戦。
この詩は、おそらく戦争中の死体を詩にしたものでしょうね。
戦後世代の私には、以前に、この詩を読んでも、理解できませんでした。
3・11の後に読んで、はじめて、この詩をおぼろげながら分かるような気がします。
そこを引用してはじめます。
「ニューヨーク・タイムズは、佐々木康(こう)さんや深田志穂さんをはじめとするプロのカメラマンと一緒に被災地取材に入り、震災被害のすさまじさや被災者の悲しみを伝える多くの写真を掲載した。そのなかには、被災地のさまざまな現場で撮影した遺体の写真も含まれている。日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているのか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた。
こうした写真に対し、日本人からネット上で批判の声が上がったことは承知している。当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めようという意図などまったくない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない。
私は被災地で数知れない遺体を見た。それは津波に流されたのだろう、鉄の屋根の上からぶら下がっていたりと、どれもがおよそ想像もつかないシチュエーションにおける悲しい遭遇だった。自分で選んだジャーナリストという仕事とはいえ、そうした光景を目にするたび、胸に、何か苦く重いものがずしりとのしかかった。つい数日前まで東京の平和な光景に見慣れていた私にとって、これが同じ国の出来事とはとても思えなかった。」(p31~32)
ここで、
「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。」とあります。そうなんだ、テレビドラマの刑事物や検死官物などで、ドラマの中での死体は、毎回のように出てくる。あれは、その反動なのかと、思いつきます。
さて、「遺体の写真」ではないのですが、
私は、「遺体の詩」を引用させていただきます。
死人 尼崎安四
死人は石のやうに静かである
月の光が外まで来てとまつてゐる
もうそこからは透射できない別の領域があるかのやうに
白い顔は歯を噛んで空の寂寥をみつめ
尖つた鼻をいよいよ細く尖らしてゐる
月に照らされて応へようともせぬ眼窠
近づくほど闇を奥に拡げてゐるうつろ
私たちが死の中まで持ち込まうとした愛、信仰、歓び
生の日の美しいそれら一切のものは
今、死とどんなつながりを持つてゐるのか
死人はもはや私たちの問に答へようとはしない
私たちの愛の呼声にさへ答へようとはしない
埋もれた泥の中から静に手足を抜き出して
頑に 外からの月の光を拒んでゐる
これは、「定本尼崎安四詩集」(彌生書房)から引用。
この詩集には「尼崎安四年譜」があり、それによると詩人は
大正2(1913)年生まれ昭和27(1952)年死去。満38歳。
戦争に行っております。
昭和16年に野戦高射砲四十四大隊に二等兵として入営。
満州牡丹江・海浪(ハイロン)。南洋パラオ。フィリピンのダバオ。ボルネオのタラカン、バリクパパン。ジャワ本島。チモール島クーパン。西部ニューギニアのカイマナ。オーストラリア北部ケイ群島のワリリル、ラングール。
昭和20年32歳ラングールにて終戦。
この詩は、おそらく戦争中の死体を詩にしたものでしょうね。
戦後世代の私には、以前に、この詩を読んでも、理解できませんでした。
3・11の後に読んで、はじめて、この詩をおぼろげながら分かるような気がします。