能入門。
2012-07-26 | 古典
「梅原猛の授業 能を観る」(朝日新聞出版)は、
能入門のありがたい一冊。
ただ能を読むだけでは、
わからない、時代の息づかいを呼吸できるような気がしてきます。
最初は自然居士(じねんこじ)から紹介されます。
「観阿弥の劇能の最大傑作が『自然居士』です。」とはじまり、
「室町時代は鎌倉時代に立てられた浄土宗、禅宗、法華宗などの教えが民衆まで浸透した時代です。こういう時代に生み出された見事な救済劇・宗教劇、それが『自然居士』であると言えます。」(p19)
こうして、山の裾野を語るように、能の時代背景を浮き彫りにしている点、読みながらワクワクさせてもらえます。
つぎに『高砂』の箇所に
「『高砂』は貴人の長寿を祈る能であることは間違いありません。・・・・気になることがあります。それは、なぜ後場に嫗が出ず、翁だけが登場するのか、という点です。その理由は翁が実はその御正体、住吉大明神というところにあります。住吉大明神は言わずと知れた歌の神であります。歌神・住吉大明神が歌という呪物によって貴人の御代を讃えるという祝言が後場の一つの意味であろうと私は考えます。」(p55)
「歌神・住吉大明神は、『古今集』『伊勢物語』と深く関係します・・」(p56)
この次にページには、
こんな箇所が出てくるのでした。
「能には植物や動物や鉱物が人間として現われてくる例が多くあります。これは『草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)』といって、植物や動物や鉱物、気象もみな人間と同じく仏性を持つという天台本覚思想の具体的表われです。この思想は観阿弥の能にはありませんが、世阿弥の能にはよく見られ・・・・
このように、和歌は生きとし生けるものすべてが詠うものであり、ここが中国の詩などと異なる点であると世阿弥は考えています。先にも述べた世阿弥の曲『白楽天』では、この詩と歌の違いがはっきりと語られ、人間のみが詠う詩に対して、草木国土までが詠う和歌の方がより優れたものだと主張されています。・・・」(p57)
ここまでで、まだ50㌻ぐらいのところです。最後は293ページ。
あと一箇所引用しておきます。
「『太平記』を読んでみると、その戦いは、初めは王朝政治を復活させようとする京都の後醍醐天皇と、鎌倉幕府即ち執権北条氏との戦いでありました。しかし後醍醐天皇の『建武の中興』は失敗し、やがて後醍醐天皇と北条氏に取って代わった足利氏との戦いになります。さらにその後、皇室も南朝、北朝に分かれ足利氏も内部分裂して何ら大義名分のない残酷な大量殺戮の戦いになります。
このような大義名分なき戦いを描く『太平記』には『平家物語』のような滅びゆく者を弔う哀悼のリリシズムはなく、ただ馬鹿げた殺し合いをする人間を笑うのみです。『太平記』は狂歌をたくさん載せます。これはこの非合理な時代をただ笑いとばすより仕方がなかったからでしょう。
観阿弥や世阿弥はこのような『南北朝』の時代を生きてきたので、当然、南北朝の武将たちをシテとする能を作ってもよいと思われるのですが、そういう能を二人はほとんど作っていません。同時代を描くことは足利将軍にたてつくことになると考えたからに違いありません。・・・」(p67~68)
ありがたい。ここに、
能の水先案内人をみつけました。
能入門のありがたい一冊。
ただ能を読むだけでは、
わからない、時代の息づかいを呼吸できるような気がしてきます。
最初は自然居士(じねんこじ)から紹介されます。
「観阿弥の劇能の最大傑作が『自然居士』です。」とはじまり、
「室町時代は鎌倉時代に立てられた浄土宗、禅宗、法華宗などの教えが民衆まで浸透した時代です。こういう時代に生み出された見事な救済劇・宗教劇、それが『自然居士』であると言えます。」(p19)
こうして、山の裾野を語るように、能の時代背景を浮き彫りにしている点、読みながらワクワクさせてもらえます。
つぎに『高砂』の箇所に
「『高砂』は貴人の長寿を祈る能であることは間違いありません。・・・・気になることがあります。それは、なぜ後場に嫗が出ず、翁だけが登場するのか、という点です。その理由は翁が実はその御正体、住吉大明神というところにあります。住吉大明神は言わずと知れた歌の神であります。歌神・住吉大明神が歌という呪物によって貴人の御代を讃えるという祝言が後場の一つの意味であろうと私は考えます。」(p55)
「歌神・住吉大明神は、『古今集』『伊勢物語』と深く関係します・・」(p56)
この次にページには、
こんな箇所が出てくるのでした。
「能には植物や動物や鉱物が人間として現われてくる例が多くあります。これは『草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)』といって、植物や動物や鉱物、気象もみな人間と同じく仏性を持つという天台本覚思想の具体的表われです。この思想は観阿弥の能にはありませんが、世阿弥の能にはよく見られ・・・・
このように、和歌は生きとし生けるものすべてが詠うものであり、ここが中国の詩などと異なる点であると世阿弥は考えています。先にも述べた世阿弥の曲『白楽天』では、この詩と歌の違いがはっきりと語られ、人間のみが詠う詩に対して、草木国土までが詠う和歌の方がより優れたものだと主張されています。・・・」(p57)
ここまでで、まだ50㌻ぐらいのところです。最後は293ページ。
あと一箇所引用しておきます。
「『太平記』を読んでみると、その戦いは、初めは王朝政治を復活させようとする京都の後醍醐天皇と、鎌倉幕府即ち執権北条氏との戦いでありました。しかし後醍醐天皇の『建武の中興』は失敗し、やがて後醍醐天皇と北条氏に取って代わった足利氏との戦いになります。さらにその後、皇室も南朝、北朝に分かれ足利氏も内部分裂して何ら大義名分のない残酷な大量殺戮の戦いになります。
このような大義名分なき戦いを描く『太平記』には『平家物語』のような滅びゆく者を弔う哀悼のリリシズムはなく、ただ馬鹿げた殺し合いをする人間を笑うのみです。『太平記』は狂歌をたくさん載せます。これはこの非合理な時代をただ笑いとばすより仕方がなかったからでしょう。
観阿弥や世阿弥はこのような『南北朝』の時代を生きてきたので、当然、南北朝の武将たちをシテとする能を作ってもよいと思われるのですが、そういう能を二人はほとんど作っていません。同時代を描くことは足利将軍にたてつくことになると考えたからに違いありません。・・・」(p67~68)
ありがたい。ここに、
能の水先案内人をみつけました。