マーティン・ファクラー著
「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)を読む。
マーティン・ファクラー氏は、
ニューヨーク・タイムズ東京支局長。
まずは、こんな箇所を引用しておきます。
「個人差があるとはいえ、ニューヨーク・タイムズの記者の給料は朝日新聞や読売新聞よりもずっと安い。だが・・・・お金よりも取材者としての自由度が高いほうにもっと大きな価値がある。ただし、仕事は非常に忙しいし、責任は重い。・・・ニューヨーク・タイムズには、私と田淵広子記者の2人しか記者がいない。私は国際部の記者として、政治や社会のテーマを中心に扱う。3・11のような地震や津波が起きたときには、被災地の取材に奔走する。田淵記者はビジネス、経済のテーマを中心に忙しく飛び回っている。」(p159)
さてっと、
この新書で、私が一箇所引用するとすれば、ここかなあ。
「南相馬市に入ってみると、すぐに被害のすさまじさがわかった。地震と津波に襲われたうえ、福島第一原発の事故のせいで物資も燃料も入ってこない。そんななか、2万5000人もの市民が孤立して取り残されていた。
南相馬市役所へは、事前にアポイントを取らずに向かった。役所に着くなり、職員から『ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞなかへ!』と大歓迎され、桜井市長自らが『よく来てくれました』と迎え入れてくれた。なぜこんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。
南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。『日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!』
市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げてしまったという。もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。
どちらにせよ、メディアの人間がいなくなり、有益な情報がまったく入ってこない状況で、職員たちは一様に強い不安を抱えていた。『南相馬はどのくらい危険な状態なのですか』とアメリカ人記者である私に質問をしてきたほどだった。」(p41~42)
うん。日本の新聞をひらいても、こういう様子までは、書かれていないなあ。外国の記者に南相馬市のことを教わる。この新書はその日本のジャーナリズムを、わかりやすく指摘しておられるのでした。
う~ん。「おわりに」からも引用しておきます。
「私は通訳を使わず、日本語を使って日本人に取材する。」(p218)
「SPEEDIデータの隠蔽のような調査記事を書くためには、ジャーナリスト個人の経験の蓄積が求められる。日本という国の仕組みや国民性まで理解していなければ、外国人記者にはなかなか踏みこんだ記事は書けないと思う。」(p219)
地方紙についての指摘もひかります。
「福島第一原発の収束までには、今後数十年もの時間を要する。世界中の人々にとって福島第一原発に関する報道はニュースバリューがある。おおよその状況については自国のメディアを通じて知ることはできるだろう。だが、日本の東北の住民たちがどんな悩みや心配事を抱えて暮しているかまでは伝わってこない。そこから収束作業に関する思わぬ問題があぶり出されることもあるかもしれない。地方紙の記者たちが地元に住む自分たちの問題と思っていたものが、実は世界の関心事にもなりうる。メディアのグローバル化は、大きなニュースばかりもてはやされるのではなく、これまで埋もれてしまっていた小さくとも良質なニュースが世界に広がる可能性も秘めている。」(p204~205)
ついつい。一箇所引用のはずが、長くなりました。
ことほど左様に、この新書は読み甲斐がありました。
「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)を読む。
マーティン・ファクラー氏は、
ニューヨーク・タイムズ東京支局長。
まずは、こんな箇所を引用しておきます。
「個人差があるとはいえ、ニューヨーク・タイムズの記者の給料は朝日新聞や読売新聞よりもずっと安い。だが・・・・お金よりも取材者としての自由度が高いほうにもっと大きな価値がある。ただし、仕事は非常に忙しいし、責任は重い。・・・ニューヨーク・タイムズには、私と田淵広子記者の2人しか記者がいない。私は国際部の記者として、政治や社会のテーマを中心に扱う。3・11のような地震や津波が起きたときには、被災地の取材に奔走する。田淵記者はビジネス、経済のテーマを中心に忙しく飛び回っている。」(p159)
さてっと、
この新書で、私が一箇所引用するとすれば、ここかなあ。
「南相馬市に入ってみると、すぐに被害のすさまじさがわかった。地震と津波に襲われたうえ、福島第一原発の事故のせいで物資も燃料も入ってこない。そんななか、2万5000人もの市民が孤立して取り残されていた。
南相馬市役所へは、事前にアポイントを取らずに向かった。役所に着くなり、職員から『ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞなかへ!』と大歓迎され、桜井市長自らが『よく来てくれました』と迎え入れてくれた。なぜこんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。
南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。『日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!』
市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げてしまったという。もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。
どちらにせよ、メディアの人間がいなくなり、有益な情報がまったく入ってこない状況で、職員たちは一様に強い不安を抱えていた。『南相馬はどのくらい危険な状態なのですか』とアメリカ人記者である私に質問をしてきたほどだった。」(p41~42)
うん。日本の新聞をひらいても、こういう様子までは、書かれていないなあ。外国の記者に南相馬市のことを教わる。この新書はその日本のジャーナリズムを、わかりやすく指摘しておられるのでした。
う~ん。「おわりに」からも引用しておきます。
「私は通訳を使わず、日本語を使って日本人に取材する。」(p218)
「SPEEDIデータの隠蔽のような調査記事を書くためには、ジャーナリスト個人の経験の蓄積が求められる。日本という国の仕組みや国民性まで理解していなければ、外国人記者にはなかなか踏みこんだ記事は書けないと思う。」(p219)
地方紙についての指摘もひかります。
「福島第一原発の収束までには、今後数十年もの時間を要する。世界中の人々にとって福島第一原発に関する報道はニュースバリューがある。おおよその状況については自国のメディアを通じて知ることはできるだろう。だが、日本の東北の住民たちがどんな悩みや心配事を抱えて暮しているかまでは伝わってこない。そこから収束作業に関する思わぬ問題があぶり出されることもあるかもしれない。地方紙の記者たちが地元に住む自分たちの問題と思っていたものが、実は世界の関心事にもなりうる。メディアのグローバル化は、大きなニュースばかりもてはやされるのではなく、これまで埋もれてしまっていた小さくとも良質なニュースが世界に広がる可能性も秘めている。」(p204~205)
ついつい。一箇所引用のはずが、長くなりました。
ことほど左様に、この新書は読み甲斐がありました。