河野裕子著「桜花の記憶」(中央公論新社)を
パラパラとめくり読み。
うん、丁寧には読みません(笑)。
すると、こんな箇所があります。
「私は、いくつかのカルチャーセンターや結社、新聞歌壇といった場で、多くの歌壇愛好者たちに接しているが、彼らは自己表現(詠み)にはたいへん熱心であるが、他人の歌(読み)にはあまり関心がないのである。つまり他人の歌をほとんど読まない。読まないから、一首一首の歌の読みができない。短歌を意味で読んで、それでわかったと思っているのである。素人と年季の入った実作者の力量が一番はっきりと見えるのは、歌会などでの歌の批評である。歌の読みができる人は当然ながらいい歌を作る。」(p180)
パラパラとめくり読み。
うん、丁寧には読みません(笑)。
すると、こんな箇所があります。
「私は、いくつかのカルチャーセンターや結社、新聞歌壇といった場で、多くの歌壇愛好者たちに接しているが、彼らは自己表現(詠み)にはたいへん熱心であるが、他人の歌(読み)にはあまり関心がないのである。つまり他人の歌をほとんど読まない。読まないから、一首一首の歌の読みができない。短歌を意味で読んで、それでわかったと思っているのである。素人と年季の入った実作者の力量が一番はっきりと見えるのは、歌会などでの歌の批評である。歌の読みができる人は当然ながらいい歌を作る。」(p180)