和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

アニミズム。

2014-07-31 | 前書・後書。
平川祐弘・鶴田欣也編
「アニミズムを読む」(新曜社)の
鶴田欣也氏の「まえがき」に

「私は会議のテーマを『自然と自己』とするよりも、
自然をもっと限定し『アニミズムと自己』として、
準備を進めていた。ある日、出席を内諾していた
米国の学者から電話がかかってきた。
アニミズムという言葉は戦時中の神道や言霊と
ひびき合い、政治的な誤解を招くのではないか。
出席者のリストを見ると国粋的と見られている
京都のある研究所の教授が何人か含まれている。
最近その研究所の助教授が日本のアニミズムを
弁護する本を書いたが、そのなかで地球の森が
破壊されたのはキリスト教思想に負うところが
多いと主張していたので、各国から抗議文が
届いて山のようになっているのをご存知だろうか。
アニミズムという問題のある言葉よりも
『自然と自己』の方が皆さん出席しやすいのでは、
というのが電話の内容だった。・・・・
結局、忠告を与えてくれたこのアメリカの学者は
会議には現われなかった。この数年北米の大学では
『ポリティカリーコレクト』という言葉がよく口に
され、教授も学生も政治的に敏感になっている。
社会科学ではもちろんのこと、文学でも美術でも
政治分析が大流行で、文体だの美意識だのの論文を
書いても出版してくれるところはなかなかない。
彼も『国粋派』と思われる学者たちと同席するのを
避け、政治的に危険なトピックから距離をおいて、
『ポリティカリーコレクト』な位置を守ったのかも
しれない。・・・
後日、問題の本を出版した研究所の助教授の方に
直接会う機会があり、その件について尋ねたところ、
抗議文は来ましたが、キリスト教関係の人から
一通あっただけで、抗議文が山積みということは
ありませんという話であった。・・・」(p8~9)

このあとに、平川祐弘氏の
「日本文学の底に流れるアニミズム」
を読むと、その最後のこうありました。

「私は本書に集められたペーパーをあらかじめ
通読する機会に恵まれたが、日本文学の特質を
論ずる諸論文の中に『言霊』という言葉と
『アニミズム』という言葉がキー・ワードの
ように繰返し出て来ることに驚き、その言葉が
何故かくもしばしば用いられるのか、その背景
をも探りつつこの一文をあらためてしたためた
次第である。私ども日本人が安直にanimism
とかspirit of the Japanese language
とかいう言葉を用いると、すぐにいきりたつ
学者がいまなお西洋にいることは私も承知して
いる。しかし私はここで神がかりを述べたわけ
ではない。ラショナルな言葉で問題の所在を提示
してきたつもりである。西洋では永い間、文学に
ついてキリスト教的解釈とでも呼ぶべきものが
まかり通ってきた。それがあまりに広く流布して
いたために『創造』とか『作者』という言葉の
背後にキリスト教があったことなど人々の意識
から消え失せてしまったのである。
・・それでたまには神道的な物差で東西両洋の
文学を測り直してみることも一興あるかと思い、
このような比較日本文化論の試みをあえて
開陳した次第である。」(p124)

そして、平川氏は文の中ほどでこう語ります。

「私たち日本人が『言霊(ことだま)』という言い方
をきわめて身近な表現として尊重しよく用いるのは、
私たちが原始的な部族で言葉の魔力を信じている
からではない。そいうではなくて秀れた詩歌には
言霊がのりうつっているかのような感銘を
実際に受ければこそである。
日本はその『言霊』の哲学を語りつぎ言いつぎ
して今日に及んでいる。その芸術哲学が
絵画に応用されれば『名画霊有り』という説
はすぐにも生れ、『筆勢神有り』という言葉も
単なるたとえ以上の実感を伴うことはすでに
述べた通りである。・・・」(p120)

うん。
まえがきと平川氏の文だけで満腹(笑)。
コメント
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