雑誌WILL9月号が届く。
読むと元気がでる(笑)。
さてっと、
「蒟蒻問答」は100回目。
ということで、加地伸行氏を
ゲストに、鼎談の雰囲気。
たとえば、ここを引用。
加地】 いまだに左翼的発言をする人は別ですが、
たとえば昭和20年代後半から30年代前半に
かけて、『日本で革命が起こる』と本気で
思っていた大学教師などは結構いましたね。・・
久保】 僕が政治部に来た当時の部長は一高時代、
不破哲三と同期だった。ちょうど共産党大躍進と
騒がれた頃で、彼は酒を飲みながら、しみじみと
『あいつ(不破)が政権を奪取した時は、
俺なんかは吊るされるんだろうなぁ』と言うんです。
こいつ酔っ払っているのかなと顔を覗き込んだら、
真顔なんで驚いてしまいましたよ。
不破哲三といえば、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)
に、
「ここで個人的な思い出を挟ませていただく。
私は一高では社会科学研究会の部屋で暮して、
上級生から唯物史観の正しさを自明の真理の
ように聞かされていた。同じ部屋には後に
不破哲三の名前で日本共産党書記長になった
上田健二郎もいたが、後に共産党から追放され
て不遇のうちに人生を了えた者もいた。
昭和23年当時の私は、竹山ら一高教授連が
蔭で『モスクワ横丁』と揶揄して呼んでいた
駒場の中寮二階の住人だったのである。
中寮二階の二室続きの16名の社研の隣は
ソビエト研究会の部屋で、その少し先には
中国研究会の部屋があった。もちろん
共産主義中国を待望する若者の部屋で、
後に魯迅研究者となる丸山昇もそこにいた。
そうした一連の赤の巣窟のような部屋が
並ぶ中で珍奇とすべきは社研の隣の中寮
18番がカトリック研究会であったことで、
ときどき神妙なお祈りの声が聞えた。
紀念祭のときの出し物は窓に洗面器が一つ、
水をなみなみと張ってそれに丸木が浮かべて
あるだけである。『マルキシズムハ誤リナリ』
という冷やかしであった。私は社研にいた
けれども、生意気な若者で唯物弁証法という
お呪いのような言葉に承服したわけではなかった。
それというのは唯物史観にのっとって書かれた
論文の多くが生硬で面白味に欠けたからである。
初めに結論ありき、という印象を拭えなかった。
・ ・・しかし寮生活は摩訶不思議なもので、
周囲とつきあいのよい友人の中には唯物弁証法
も理解してしまい、さらには入党するか、
すまいかと頭を悩ます者も出てきた。
朱にまじわれば赤くなる、とはこのことで
あろう。さらには実際に入党し、そして
さらに後に党から追放された者も出た。
入党を勧める側の論理は暴力革命の
必然性の強調で、私たちが生きているうちには
日本にも社会主義革命は不可避的に起こるから、
なるなら早く党員になるがよい、という論理で
あった。『第一次世界大戦の後、世界の六分の一
はソ連という社会主義になった。第二次世界大戦
の後、いまや中国を含めて世界の三分の一は
社会主義になった』共産党の野坂参三が
皇居前広場で演説すると嵐のような大歓声
がわいたことを私も記憶している。
・ ・・・昭和20年代末に留学した私は
パリでもボンでもロンドンでも、その国の
新聞をよく読んだ。読みでがあった。・・
日本という閉ざされた言語空間の外で暮し、
西洋で日本左翼代表の労組の人などの通訳を
するうちに、その粗雑さ加減に違和感を覚え、
社会主義への期待はいよいよ薄れた。
平和問題談話会の面々も信用しなくなっていた。
帰国した私は『昭和の精神史』を読んで
『上からの演繹』を批判した竹山に共感した。
・・・帰国した当時の私は・・・
日本の大学内にマルクス主義の残滓(ざんし)の
依然として根強いことに驚いたはいいが、それを
『マルクス主義のザンサイ』とこれまた間違って
発音して笑われた。」(p263~266)
ところで、
WILL9月号は
「総力大特集 朝日を読むとバカになる」。
うん。
平川祐弘氏は昭和20年代末に
ヨーロッパの新聞を読んで
『日本という閉ざされた言語空間』を
理解したのですが、現在では
『朝日新聞という閉ざされた言語空間』
を味わうめぐりあわせ。
『残滓の依然として根強いことに』
今でも、向きあう。
この朝日新聞の言語空間に
公称760万の読者が、今だついている。
この不気味さは、目をそむけまい。
うん。
「朝日を読むとバカになる」を
読めてよかった。
読むと元気がでる(笑)。
さてっと、
「蒟蒻問答」は100回目。
ということで、加地伸行氏を
ゲストに、鼎談の雰囲気。
たとえば、ここを引用。
加地】 いまだに左翼的発言をする人は別ですが、
たとえば昭和20年代後半から30年代前半に
かけて、『日本で革命が起こる』と本気で
思っていた大学教師などは結構いましたね。・・
久保】 僕が政治部に来た当時の部長は一高時代、
不破哲三と同期だった。ちょうど共産党大躍進と
騒がれた頃で、彼は酒を飲みながら、しみじみと
『あいつ(不破)が政権を奪取した時は、
俺なんかは吊るされるんだろうなぁ』と言うんです。
こいつ酔っ払っているのかなと顔を覗き込んだら、
真顔なんで驚いてしまいましたよ。
不破哲三といえば、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)
に、
「ここで個人的な思い出を挟ませていただく。
私は一高では社会科学研究会の部屋で暮して、
上級生から唯物史観の正しさを自明の真理の
ように聞かされていた。同じ部屋には後に
不破哲三の名前で日本共産党書記長になった
上田健二郎もいたが、後に共産党から追放され
て不遇のうちに人生を了えた者もいた。
昭和23年当時の私は、竹山ら一高教授連が
蔭で『モスクワ横丁』と揶揄して呼んでいた
駒場の中寮二階の住人だったのである。
中寮二階の二室続きの16名の社研の隣は
ソビエト研究会の部屋で、その少し先には
中国研究会の部屋があった。もちろん
共産主義中国を待望する若者の部屋で、
後に魯迅研究者となる丸山昇もそこにいた。
そうした一連の赤の巣窟のような部屋が
並ぶ中で珍奇とすべきは社研の隣の中寮
18番がカトリック研究会であったことで、
ときどき神妙なお祈りの声が聞えた。
紀念祭のときの出し物は窓に洗面器が一つ、
水をなみなみと張ってそれに丸木が浮かべて
あるだけである。『マルキシズムハ誤リナリ』
という冷やかしであった。私は社研にいた
けれども、生意気な若者で唯物弁証法という
お呪いのような言葉に承服したわけではなかった。
それというのは唯物史観にのっとって書かれた
論文の多くが生硬で面白味に欠けたからである。
初めに結論ありき、という印象を拭えなかった。
・ ・・しかし寮生活は摩訶不思議なもので、
周囲とつきあいのよい友人の中には唯物弁証法
も理解してしまい、さらには入党するか、
すまいかと頭を悩ます者も出てきた。
朱にまじわれば赤くなる、とはこのことで
あろう。さらには実際に入党し、そして
さらに後に党から追放された者も出た。
入党を勧める側の論理は暴力革命の
必然性の強調で、私たちが生きているうちには
日本にも社会主義革命は不可避的に起こるから、
なるなら早く党員になるがよい、という論理で
あった。『第一次世界大戦の後、世界の六分の一
はソ連という社会主義になった。第二次世界大戦
の後、いまや中国を含めて世界の三分の一は
社会主義になった』共産党の野坂参三が
皇居前広場で演説すると嵐のような大歓声
がわいたことを私も記憶している。
・ ・・・昭和20年代末に留学した私は
パリでもボンでもロンドンでも、その国の
新聞をよく読んだ。読みでがあった。・・
日本という閉ざされた言語空間の外で暮し、
西洋で日本左翼代表の労組の人などの通訳を
するうちに、その粗雑さ加減に違和感を覚え、
社会主義への期待はいよいよ薄れた。
平和問題談話会の面々も信用しなくなっていた。
帰国した私は『昭和の精神史』を読んで
『上からの演繹』を批判した竹山に共感した。
・・・帰国した当時の私は・・・
日本の大学内にマルクス主義の残滓(ざんし)の
依然として根強いことに驚いたはいいが、それを
『マルクス主義のザンサイ』とこれまた間違って
発音して笑われた。」(p263~266)
ところで、
WILL9月号は
「総力大特集 朝日を読むとバカになる」。
うん。
平川祐弘氏は昭和20年代末に
ヨーロッパの新聞を読んで
『日本という閉ざされた言語空間』を
理解したのですが、現在では
『朝日新聞という閉ざされた言語空間』
を味わうめぐりあわせ。
『残滓の依然として根強いことに』
今でも、向きあう。
この朝日新聞の言語空間に
公称760万の読者が、今だついている。
この不気味さは、目をそむけまい。
うん。
「朝日を読むとバカになる」を
読めてよかった。