東日本大震災の以前と以後。
という分け方を、ついしてしまうことがあります。
さて。ここに3冊。
2010年8月初版の、平川祐弘著「ダンテ『神曲』講義」
2011年1月30日第一刷、佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」
そして、2011年3月11日東日本大震災。
2011年7月25日第一刷、佐々淳行著
「ほんとに、彼らが日本を滅ぼす」(幻冬舎)
では、最初の一冊から順に引用してゆきます。
「『それはそうだろう。戦中派にとって最大の
記憶は戦争だ。それにたいして団塊の世代にとって
最大の記憶はたかだか大学闘争だ。前者には
深い反省があった。しかし大学紛争で騒いだことが
正しいと思い込んだような愚かな人間には
反省がない。自分たちを取囲む情報空間が
いかにいびつであるかという自覚や反省の
ないまま育った人に、きちんとした判断も
仕事もできるはずはない』。」(p17)
2冊目から引用。
「私は、学生時代の菅直人氏をよく知っている。
菅直人総理も、あの第二次反安保闘争の学園紛争
花盛りの当時、バリケード封鎖された東京工業
大学の輝ける闘争委員長だった。
三派系セクトには属していなかったようだが、
東工大学生たちを反安保闘争にかり立てる
名アジテーターであったことは間違いない。
当時、警視庁警備第一課長で機動隊運用の
責任者だった私は、学長・加藤六美氏の要請で
同大学付近に出動・待機していた間に、
ラウンドスピーカーを通じて流れてくる
彼のアジ演説を耳にしたものである。
加藤学長は、『あの菅という学生には
手を焼いております。彼がアジ演説をすると、
すぐ500人くらい集まって騒ぐので困って
おります』と、窮状を私に訴えていた。
・・・・・・
現場で警視庁の警備公安の幹部たちが、
『我々は、菅のことを【四列目の男】と
呼んでいるんです』と言う。・・・・
『機動隊が検挙活動に入ると、横隊だと
三列目までは手が届くんですが、四列目と
なると手が届きません。彼はいつも
四列目より後ろにいて、逃げ足が速いんで
捕まえられないのです』
なるほど、三回にわたる検挙活動で
菅委員長を捕まえることができなかったわけが
わかった。」(p140~141)
3冊目から引用。
「菅内閣は、東日本大震災と福島第一原発事故に
対し、最大規模の『国家危機管理』の問題として
取り組むべきであり、そのためには
『安全保障会議設置法』と『国民保護法』を
適用すべきであった。・・・・
では、なぜ『菅直人総理と七人衆』は
『安全保障会議設置法』と『国民保護法』を
適用しなかったのだろうか?
それは彼らが自衛隊とか警察とか、安全保障とか、
武張ったもの、力のあるものに対しては、
生理的に体質的に拒否反応があって、なんでも小さく、
平和的に、事勿(ことなか)れの楽観論で
体制をとるという、左翼特有の基本姿勢を
持っているからではないだろうか?
だから、東日本大震災そのものを『国家の危機管理』
とか『国難』としてとらえず、都道府県市町村の
首長が担当する、地方自治マターとしての
『ふつうの災害』というカテゴリーだと決めつけ、
昔の自治省とその系列である国土庁長官が
担当する程度の災害と考えようとしたのだろう。」
(p76~78)
「冷却装置が津波で破壊され、過熱した原子炉は、
冷やさなければいけない。・・・
まず最初に『警視庁第一機動隊の高圧放水車』と
発表した。私は思わず『本卦還りか』と失笑した。
・・そもそも警視庁機動隊の放水車は、当時街頭
武装行動を全部にわたって繰り返していた極左
過激派学生たちを解散させるために水平に水を
掃射するもので、仰角はあまりなく、放水の射程は、
せいぜい、50m(現在は100m)、気圧も12気圧。
だからベニヤ板で防御された東大安田講堂の
窓は破れなかった。・・・・
次が、自衛隊ヘリに水を入れた容器を吊るして
空中から原子炉に水を投下する冷却法である。
これも実は、東大安田講堂で屋上に籠城して
いた学生たちに対して用いられた手法だった。
だが実際にやってみると、ホバリングして水を
投下しても自機のローターの風に吹き散らされ
て講堂周辺に落下し、安田講堂を包囲していた
私たちがビショ濡れになってしまい、
催涙ガスも飛散して機動隊に襲いかかるという
事態となり、中止を命じたのである。・・
私は、これらの冷却作戦を菅総理と
千石官房副長官の過去の自分の体験からの
アイデアだと思っている。あれはまさに
東大安田講堂攻めのイメージが、多分放水を
浴びた経験をもつ両氏の脳裏に強烈に
焼きついていたのだろう。・・・・
初めからダメとわかっている決死の接近
放水を命ぜられて全国民全世界注視の中で
失敗に終わった自衛隊や警視庁機動隊の
口惜しさは察するに余りある。・・・」
(p100~101)
という分け方を、ついしてしまうことがあります。
さて。ここに3冊。
2010年8月初版の、平川祐弘著「ダンテ『神曲』講義」
2011年1月30日第一刷、佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」
そして、2011年3月11日東日本大震災。
2011年7月25日第一刷、佐々淳行著
「ほんとに、彼らが日本を滅ぼす」(幻冬舎)
では、最初の一冊から順に引用してゆきます。
「『それはそうだろう。戦中派にとって最大の
記憶は戦争だ。それにたいして団塊の世代にとって
最大の記憶はたかだか大学闘争だ。前者には
深い反省があった。しかし大学紛争で騒いだことが
正しいと思い込んだような愚かな人間には
反省がない。自分たちを取囲む情報空間が
いかにいびつであるかという自覚や反省の
ないまま育った人に、きちんとした判断も
仕事もできるはずはない』。」(p17)
2冊目から引用。
「私は、学生時代の菅直人氏をよく知っている。
菅直人総理も、あの第二次反安保闘争の学園紛争
花盛りの当時、バリケード封鎖された東京工業
大学の輝ける闘争委員長だった。
三派系セクトには属していなかったようだが、
東工大学生たちを反安保闘争にかり立てる
名アジテーターであったことは間違いない。
当時、警視庁警備第一課長で機動隊運用の
責任者だった私は、学長・加藤六美氏の要請で
同大学付近に出動・待機していた間に、
ラウンドスピーカーを通じて流れてくる
彼のアジ演説を耳にしたものである。
加藤学長は、『あの菅という学生には
手を焼いております。彼がアジ演説をすると、
すぐ500人くらい集まって騒ぐので困って
おります』と、窮状を私に訴えていた。
・・・・・・
現場で警視庁の警備公安の幹部たちが、
『我々は、菅のことを【四列目の男】と
呼んでいるんです』と言う。・・・・
『機動隊が検挙活動に入ると、横隊だと
三列目までは手が届くんですが、四列目と
なると手が届きません。彼はいつも
四列目より後ろにいて、逃げ足が速いんで
捕まえられないのです』
なるほど、三回にわたる検挙活動で
菅委員長を捕まえることができなかったわけが
わかった。」(p140~141)
3冊目から引用。
「菅内閣は、東日本大震災と福島第一原発事故に
対し、最大規模の『国家危機管理』の問題として
取り組むべきであり、そのためには
『安全保障会議設置法』と『国民保護法』を
適用すべきであった。・・・・
では、なぜ『菅直人総理と七人衆』は
『安全保障会議設置法』と『国民保護法』を
適用しなかったのだろうか?
それは彼らが自衛隊とか警察とか、安全保障とか、
武張ったもの、力のあるものに対しては、
生理的に体質的に拒否反応があって、なんでも小さく、
平和的に、事勿(ことなか)れの楽観論で
体制をとるという、左翼特有の基本姿勢を
持っているからではないだろうか?
だから、東日本大震災そのものを『国家の危機管理』
とか『国難』としてとらえず、都道府県市町村の
首長が担当する、地方自治マターとしての
『ふつうの災害』というカテゴリーだと決めつけ、
昔の自治省とその系列である国土庁長官が
担当する程度の災害と考えようとしたのだろう。」
(p76~78)
「冷却装置が津波で破壊され、過熱した原子炉は、
冷やさなければいけない。・・・
まず最初に『警視庁第一機動隊の高圧放水車』と
発表した。私は思わず『本卦還りか』と失笑した。
・・そもそも警視庁機動隊の放水車は、当時街頭
武装行動を全部にわたって繰り返していた極左
過激派学生たちを解散させるために水平に水を
掃射するもので、仰角はあまりなく、放水の射程は、
せいぜい、50m(現在は100m)、気圧も12気圧。
だからベニヤ板で防御された東大安田講堂の
窓は破れなかった。・・・・
次が、自衛隊ヘリに水を入れた容器を吊るして
空中から原子炉に水を投下する冷却法である。
これも実は、東大安田講堂で屋上に籠城して
いた学生たちに対して用いられた手法だった。
だが実際にやってみると、ホバリングして水を
投下しても自機のローターの風に吹き散らされ
て講堂周辺に落下し、安田講堂を包囲していた
私たちがビショ濡れになってしまい、
催涙ガスも飛散して機動隊に襲いかかるという
事態となり、中止を命じたのである。・・
私は、これらの冷却作戦を菅総理と
千石官房副長官の過去の自分の体験からの
アイデアだと思っている。あれはまさに
東大安田講堂攻めのイメージが、多分放水を
浴びた経験をもつ両氏の脳裏に強烈に
焼きついていたのだろう。・・・・
初めからダメとわかっている決死の接近
放水を命ぜられて全国民全世界注視の中で
失敗に終わった自衛隊や警視庁機動隊の
口惜しさは察するに余りある。・・・」
(p100~101)