産経新聞の7月24日「正論」欄は
平川祐弘氏でした。その文の最後は、
1990年代の北京外大での外国人教授として
赴任している頃のことが出て来ます。
「その年も北京に出向いたが
『外大で教えるかたわら中国語を
お習いになりませんか』と飛行場で勧誘された。
不況で韓国留学生が一斉に帰国してしまい
大弱りだという。承知して授業料を払うと
クラス分けのテストがある。中国語会話は
家内の方が達者だ。別々の試験は面倒だから
一緒に面接を受けた。家内が先に答える。
私は『対(トエ)、対(トエ)』と相槌を打つ。
そこまでは誤魔化せたが筆記試験で実力が露見し、
私は家内より4級下の組に振り当てられた。・・
学期末、優秀学生を学生の投票で選ぶという。
なんと隣の組では年の功だろう、家内が選ばれた。
・ ・・週2日は教授として教えていた関係で
私は語学クラスをかなり欠席した。当然実力にも
欠ける。しかし試験に優秀学生の成績が悪いと
判定会議で問題になるかもしれない。それを
懸念したのだろうか、最終テストの最中に先生が
正解をそっと教えてくれた。・・・」
さてっと、今日になって
平川祐弘著「日本語は生きのびるか」(河出ブックス)を
パラパラを読み直していたら、中国語についての箇所が
出てくるのでした(笑)。
「これはもちろん、日本語も中国語も話せる、という
意味でのバイリンガルではない。日本人にとって
中国語と漢文は別である。しかし大局的に見ると
そんな区別は取るに足らない。中国語はChineseと
英語でいわれる。漢文も同じくChineseと英語に訳される。
かつてパリ第七大学で漢文を教授していた私は
中国文学科のフランス人主任教授に誤解されて
質問を浴びた。中国語主任の監督下にない日本人教授が
chinoisを教えるとは何事か、という詰問である。
しかし日本の漢文訓読法は、フランス人の中国語専門家
にも、いや中国人教授にも教えることの出来ない
Chineseである。漢文は日本語の一部なのだ、という
考え方もあろう。しかしラテン語はフランス語の一部
とか英語の一部という考え方は西洋ではあり得ない。
だとすると20世紀以前の日本知識人は日本文と
漢文の双方に通じていたという意味でバイリンガルだった、
と認めねばならない。
地球規模での交通通信手段が発達する以前の世界では、
文明の進んだ土地でバイリンガルな人とは書籍的な
訓練による支配的言語と母語の二ヶ国語を習得した
人のことであった。その二ヶ国語とはヨーロッパでは
ラテン語と土地の言葉であり、東アジアでは漢文と
土地の言葉だったのである。そしてその種の書籍的な
文法習得に始まる言語習得こそが人間の性格を形成する
訓練なのであり、教養教育でもあった。そしてそれが
知性と感性を磨く人文教育の根幹であることは
現在も変らないであろう。」(p172~173)
平川祐弘氏でした。その文の最後は、
1990年代の北京外大での外国人教授として
赴任している頃のことが出て来ます。
「その年も北京に出向いたが
『外大で教えるかたわら中国語を
お習いになりませんか』と飛行場で勧誘された。
不況で韓国留学生が一斉に帰国してしまい
大弱りだという。承知して授業料を払うと
クラス分けのテストがある。中国語会話は
家内の方が達者だ。別々の試験は面倒だから
一緒に面接を受けた。家内が先に答える。
私は『対(トエ)、対(トエ)』と相槌を打つ。
そこまでは誤魔化せたが筆記試験で実力が露見し、
私は家内より4級下の組に振り当てられた。・・
学期末、優秀学生を学生の投票で選ぶという。
なんと隣の組では年の功だろう、家内が選ばれた。
・ ・・週2日は教授として教えていた関係で
私は語学クラスをかなり欠席した。当然実力にも
欠ける。しかし試験に優秀学生の成績が悪いと
判定会議で問題になるかもしれない。それを
懸念したのだろうか、最終テストの最中に先生が
正解をそっと教えてくれた。・・・」
さてっと、今日になって
平川祐弘著「日本語は生きのびるか」(河出ブックス)を
パラパラを読み直していたら、中国語についての箇所が
出てくるのでした(笑)。
「これはもちろん、日本語も中国語も話せる、という
意味でのバイリンガルではない。日本人にとって
中国語と漢文は別である。しかし大局的に見ると
そんな区別は取るに足らない。中国語はChineseと
英語でいわれる。漢文も同じくChineseと英語に訳される。
かつてパリ第七大学で漢文を教授していた私は
中国文学科のフランス人主任教授に誤解されて
質問を浴びた。中国語主任の監督下にない日本人教授が
chinoisを教えるとは何事か、という詰問である。
しかし日本の漢文訓読法は、フランス人の中国語専門家
にも、いや中国人教授にも教えることの出来ない
Chineseである。漢文は日本語の一部なのだ、という
考え方もあろう。しかしラテン語はフランス語の一部
とか英語の一部という考え方は西洋ではあり得ない。
だとすると20世紀以前の日本知識人は日本文と
漢文の双方に通じていたという意味でバイリンガルだった、
と認めねばならない。
地球規模での交通通信手段が発達する以前の世界では、
文明の進んだ土地でバイリンガルな人とは書籍的な
訓練による支配的言語と母語の二ヶ国語を習得した
人のことであった。その二ヶ国語とはヨーロッパでは
ラテン語と土地の言葉であり、東アジアでは漢文と
土地の言葉だったのである。そしてその種の書籍的な
文法習得に始まる言語習得こそが人間の性格を形成する
訓練なのであり、教養教育でもあった。そしてそれが
知性と感性を磨く人文教育の根幹であることは
現在も変らないであろう。」(p172~173)