木下是雄集3「日本人の言語環境を考える」。
そこの短文を全文引用してみたくなりました。
ちなみに、1976年5月号に載った文です。
「・・山手線の鶯谷の駅を上野の山のほうに
出たところに公望荘というそば屋がある。
そばの味も今の東京で第一流と思うし、
そこで飲ませる岩手県の酒もうまいが、
私が月に一度ほどはこの店ののれんを
くぐるのは、一つにはここの仲居の
おばあさんのことばを聞くたのしみのためである。
いくらか猫背になったが小柄なからだは
キリキリシャンとして、下町ではなく
山の手のことば、私たちが育ったところの
ていねいことばを話す。いわゆる標準語の
原形に近いものだろう。
『標準語は美しくない』というひとが多く、
内村直也氏もその意見のようだが、
自分の育った環境のせいか、私には
このおばあさんのことばが美しく、
なつかしく響くのである。
『はい、いらっしゃいませ』
『お召し上りは?』
せいろそばと酒を注文する。
『はい、かしこまりました。
おそばはもう少しあとにいたしましょうか』
『すぐでよろしゅうございますか。はい』
カウンターのなかに向かって声を張って
『せいろ一枚。お銚子一本』
客の質問に
『はい、さいでございます。
おろしそばは冷たいのにいたしましょうか』
またほかの客の質問を受けて、
カウンターのなかに向かって一調子下げて
『あのう、そば寿司できるか、
ちょっと聞いて下さい』
私のところに注文の品をもってくる。
『はい、お待ち遠さま』
徳利の首をつまもうとすると
『あ、どうぞ真中をお持ち下さい。
上が熱うございます』
『このそば湯をお借りしてよろしゅう
ございましょうか』
カウンターに行って
『湯とう替えて下さい』
客が手洗いに立つ。
『今おはいりになっていらっしゃい
ますから少々お待ち下さいませ』
勘定に立った客に
『はいお預りいたします』
カウンターのなかに向かってはっきりと
『1000円で850円いただき』――
『どうもありがとうございました』
私は、今の世の中で、これほどていねいな
ことばづかいが必要だとは思わない。
しかし、このおばあさんの格調正しく明晰な
もの言いには魅せられるのである。」
(p147~149・晶文社)
そこの短文を全文引用してみたくなりました。
ちなみに、1976年5月号に載った文です。
「・・山手線の鶯谷の駅を上野の山のほうに
出たところに公望荘というそば屋がある。
そばの味も今の東京で第一流と思うし、
そこで飲ませる岩手県の酒もうまいが、
私が月に一度ほどはこの店ののれんを
くぐるのは、一つにはここの仲居の
おばあさんのことばを聞くたのしみのためである。
いくらか猫背になったが小柄なからだは
キリキリシャンとして、下町ではなく
山の手のことば、私たちが育ったところの
ていねいことばを話す。いわゆる標準語の
原形に近いものだろう。
『標準語は美しくない』というひとが多く、
内村直也氏もその意見のようだが、
自分の育った環境のせいか、私には
このおばあさんのことばが美しく、
なつかしく響くのである。
『はい、いらっしゃいませ』
『お召し上りは?』
せいろそばと酒を注文する。
『はい、かしこまりました。
おそばはもう少しあとにいたしましょうか』
『すぐでよろしゅうございますか。はい』
カウンターのなかに向かって声を張って
『せいろ一枚。お銚子一本』
客の質問に
『はい、さいでございます。
おろしそばは冷たいのにいたしましょうか』
またほかの客の質問を受けて、
カウンターのなかに向かって一調子下げて
『あのう、そば寿司できるか、
ちょっと聞いて下さい』
私のところに注文の品をもってくる。
『はい、お待ち遠さま』
徳利の首をつまもうとすると
『あ、どうぞ真中をお持ち下さい。
上が熱うございます』
『このそば湯をお借りしてよろしゅう
ございましょうか』
カウンターに行って
『湯とう替えて下さい』
客が手洗いに立つ。
『今おはいりになっていらっしゃい
ますから少々お待ち下さいませ』
勘定に立った客に
『はいお預りいたします』
カウンターのなかに向かってはっきりと
『1000円で850円いただき』――
『どうもありがとうございました』
私は、今の世の中で、これほどていねいな
ことばづかいが必要だとは思わない。
しかし、このおばあさんの格調正しく明晰な
もの言いには魅せられるのである。」
(p147~149・晶文社)