清水きん著「夫山本周五郎」(福武文庫)の
解説は木村久邇典(解説のはじまりは印象鮮やか)。
その解説を読むと、
「山本(周五郎)の馬込時代の最晩期
(山本は(昭和)20年5月4日に、
前夫人のきよえ(?)を膵臓癌でうしない、
21年1月に吉村きんと再婚、翌2月、
横浜市中区本牧元町へ転住した)」(p228)
とあります。
すこし本文から引用。
「主人(うち)は本牧あたりの環境は
気に入っていたようです。・・・
間門園へいくまえは、仕事が終わると
ひる過ぎに子供を連れて海へ出て、手製の
ヤスで魚をついたり、貝を拾ってきたり
して一杯飲みはじめます。とても疲れが
とれる、と言ったものでした。ですから
そのころ、『ああ、きょうは疲れたな』
なんて言っているのを聞いて、わたくしは、
『じゃあ、仕事はやめて海岸へ行ってみたら
・ ・・』とよく言いました。主人(うち)は
びっくりしたような顔をして、『そんなあたた
かいことを言われたのははじめてだ』なんて
笑いながら驚いていましたっけ。
これまでは、自分の生活基準をキチンとつくって、
家族に対しても、自分はおっかないものだという
かたちをつくってきたのに、物書きの生活など
まったく知らず、そんな形式的なこと、
考えたことのないわたしが、何のはばかりもなく
そう言ったので、主人としても驚いたわけ
なんでしょう。そういうわたくしの性格が
主人にとっては逆によかったのでしょうか、
よろずにつけてたいへんに気分が楽になった。
あのころはよくそう申してくれました。
のちに『下町もの』を書き始めたのも、
そういう自分の気分が作品に反映したの
じゃないでしょうか。・・・・
『ぼくの小説の半分は、かあさんのおかげ
で書けたんだ』。よくこんなことも言って
たものです。わたくしはずうっと下町で
育ちましたし、主人とは年も五つしか
違いませんから、いわば同年代という
わけです。ですから、なんとなくだした
話題から、二つ、三つと他の話題が尾を
ひいて次々に出てくるのです。・・」
(p129~131)
解説にもどると
「きん夫人は、東京市本郷区根津片町三番地
に生まれ、昭和3年に大森の馬込に転居する
まで、幼・少女期をここで過ごした
しゃきしゃきの東京の下町っ子である。」
(p227)
うん。ちょうど、読売新聞では
昨日から文化欄で「谷崎 愛の手紙」
という紹介文の連載がはじまっていました。
千葉俊二編「谷崎潤一郎の手紙」
(中央公論新社)を4回にわけて
紹介する記事。
谷崎潤一郎の手紙はいいや(笑)。
今の私には、興味がない。
もどって、
「きん夫人は・・しゃきしゃきの」
という箇所を読んだら、
あの、鶯谷駅近くの公望荘の
おばあさんを表現した
「小柄なからだはキリキリシャンとして」
という箇所が連想されました。
山の手の、キリキリシャンと、
下町の、しゃきしゃき。
じつは、木村久邇典の解説のはじまりを
引用したかったのですが、長くなる(笑)。
機会がありましたら、どうぞ、
読んでみてください。
そちらを引用したかったのに、
ついつい脱線してしまったのです。
解説は木村久邇典(解説のはじまりは印象鮮やか)。
その解説を読むと、
「山本(周五郎)の馬込時代の最晩期
(山本は(昭和)20年5月4日に、
前夫人のきよえ(?)を膵臓癌でうしない、
21年1月に吉村きんと再婚、翌2月、
横浜市中区本牧元町へ転住した)」(p228)
とあります。
すこし本文から引用。
「主人(うち)は本牧あたりの環境は
気に入っていたようです。・・・
間門園へいくまえは、仕事が終わると
ひる過ぎに子供を連れて海へ出て、手製の
ヤスで魚をついたり、貝を拾ってきたり
して一杯飲みはじめます。とても疲れが
とれる、と言ったものでした。ですから
そのころ、『ああ、きょうは疲れたな』
なんて言っているのを聞いて、わたくしは、
『じゃあ、仕事はやめて海岸へ行ってみたら
・ ・・』とよく言いました。主人(うち)は
びっくりしたような顔をして、『そんなあたた
かいことを言われたのははじめてだ』なんて
笑いながら驚いていましたっけ。
これまでは、自分の生活基準をキチンとつくって、
家族に対しても、自分はおっかないものだという
かたちをつくってきたのに、物書きの生活など
まったく知らず、そんな形式的なこと、
考えたことのないわたしが、何のはばかりもなく
そう言ったので、主人としても驚いたわけ
なんでしょう。そういうわたくしの性格が
主人にとっては逆によかったのでしょうか、
よろずにつけてたいへんに気分が楽になった。
あのころはよくそう申してくれました。
のちに『下町もの』を書き始めたのも、
そういう自分の気分が作品に反映したの
じゃないでしょうか。・・・・
『ぼくの小説の半分は、かあさんのおかげ
で書けたんだ』。よくこんなことも言って
たものです。わたくしはずうっと下町で
育ちましたし、主人とは年も五つしか
違いませんから、いわば同年代という
わけです。ですから、なんとなくだした
話題から、二つ、三つと他の話題が尾を
ひいて次々に出てくるのです。・・」
(p129~131)
解説にもどると
「きん夫人は、東京市本郷区根津片町三番地
に生まれ、昭和3年に大森の馬込に転居する
まで、幼・少女期をここで過ごした
しゃきしゃきの東京の下町っ子である。」
(p227)
うん。ちょうど、読売新聞では
昨日から文化欄で「谷崎 愛の手紙」
という紹介文の連載がはじまっていました。
千葉俊二編「谷崎潤一郎の手紙」
(中央公論新社)を4回にわけて
紹介する記事。
谷崎潤一郎の手紙はいいや(笑)。
今の私には、興味がない。
もどって、
「きん夫人は・・しゃきしゃきの」
という箇所を読んだら、
あの、鶯谷駅近くの公望荘の
おばあさんを表現した
「小柄なからだはキリキリシャンとして」
という箇所が連想されました。
山の手の、キリキリシャンと、
下町の、しゃきしゃき。
じつは、木村久邇典の解説のはじまりを
引用したかったのですが、長くなる(笑)。
機会がありましたら、どうぞ、
読んでみてください。
そちらを引用したかったのに、
ついつい脱線してしまったのです。