加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)
の最後の方にありました。
この箇所を引用。
「・・しからばどうするか。
解決方法は簡単だ。おかしいとおもう語法は
つかわないことにしたらいいのである。
ひとさまはいざ知らず、わたしは絶対に
つかわない。それだけのことである。
およそことばをつかう、ということは
語彙や語法を選択する、ということである。
その選択基準は個々人の信念あるいは、
ことばについての思想という以外の
なにものでもあるまい。その信念によって
くみたてられた文がそのひとの『個性』
というものなのではないのか。
みんながそういっているから、というので
それに同調する必要なんかありはしない。
・・・・・・
『ことばは生きもの』だから、と説明なさる
かたがおられる。いや、たいていのひとが
そうおもっている。たしかに、新語が
つぎつぎにあらわれ、かつてつかわれていた
ことばが『死語』になってゆくありさまを
みていると、ことばの世界は時々刻々
うごき、呼吸している『生きもの』の
ようにみえる。だが、このもっともらしい
『生きもの』説にまどわされてはいけない。
『生きて』いるのはことばをつかう『人間』
なのであって、けっして『ことば』
なのではない。・・・生命力をもっているのは
おたがい人間なのである。その人間たちが
どんなことばをえらび、どんなふうにつかうか、
によってことばは変化する。それだけのことだ。
われわれがことばに責任をもつ、というのは、
ひとりひとりの人間がみずからのことばを
つかって生きるということなのである。」
(p225~226)
以前にひらいたときには、
ここを読みとばしておりました。
この本は一度だけ読んだのでは、
読んだうちにはいらないようです。
私の場合はそうでした(笑)。
しばらくは、座右に置くことに。
の最後の方にありました。
この箇所を引用。
「・・しからばどうするか。
解決方法は簡単だ。おかしいとおもう語法は
つかわないことにしたらいいのである。
ひとさまはいざ知らず、わたしは絶対に
つかわない。それだけのことである。
およそことばをつかう、ということは
語彙や語法を選択する、ということである。
その選択基準は個々人の信念あるいは、
ことばについての思想という以外の
なにものでもあるまい。その信念によって
くみたてられた文がそのひとの『個性』
というものなのではないのか。
みんながそういっているから、というので
それに同調する必要なんかありはしない。
・・・・・・
『ことばは生きもの』だから、と説明なさる
かたがおられる。いや、たいていのひとが
そうおもっている。たしかに、新語が
つぎつぎにあらわれ、かつてつかわれていた
ことばが『死語』になってゆくありさまを
みていると、ことばの世界は時々刻々
うごき、呼吸している『生きもの』の
ようにみえる。だが、このもっともらしい
『生きもの』説にまどわされてはいけない。
『生きて』いるのはことばをつかう『人間』
なのであって、けっして『ことば』
なのではない。・・・生命力をもっているのは
おたがい人間なのである。その人間たちが
どんなことばをえらび、どんなふうにつかうか、
によってことばは変化する。それだけのことだ。
われわれがことばに責任をもつ、というのは、
ひとりひとりの人間がみずからのことばを
つかって生きるということなのである。」
(p225~226)
以前にひらいたときには、
ここを読みとばしておりました。
この本は一度だけ読んだのでは、
読んだうちにはいらないようです。
私の場合はそうでした(笑)。
しばらくは、座右に置くことに。