和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

カオナシ文。

2015-03-17 | 好き嫌い
加藤秀俊著「自己表現」(中公新書)
から一箇所引用。


「『わたし』を濫発しすぎるのも、あんまり
感心できることではない。しかし一般的に
いって、日本人の文章には『わたし』が出る
ことがすくない。遠慮深いのであろうか。
遠慮だけではない。『わたし』を出さない
ことで、責任をぼやかすくふうをわれわれは
凝らす。たとえば
『・・・といわれている』
『・・・と見るむきも多い』
『いわゆる・・・』
これらの表現は、不特定の第三者を言外の主語
として使った表現で、われわれにはなじみ深い
構文だが、ここにあるのは、その文章の内容に
ついての責任が、どこにあるのかわからなくする
煙幕のようなものだ。わたしは、こういう構文の
文章は、おおむね信頼しないことにしている。
なにかしら、書き手のがわに、一種のいやらしさ
を感じるからだ。しかも、この方法を使うと、
擬似的客観性とでも呼ぶべき効果がうまれるから、
そのいやらしさは倍加する。うまい逃げ方には
ちがいないが、スッキリした文章ではない、
とわたしは思う。」(p110~111)


う~ん。ややもすると、
いやらしい構文を、使いたがる私は、
反省すること頻り。
それにしても、『倍加する、いやらしさ』の
包囲網をくぐりぬけるのに、
先頭は、やっぱり私からだな(笑)。

加藤秀俊氏の本は
『自己表現』の継続展開版として
『なんのための日本語』(中公新書)があり、
そこからも引用することに。

「・・こんなふうにかんがえてくると、
日本語があいまいだ、という説はまったく
根拠のないものであることがわかる。
もしもこの説にいささかの真理があると
するなら、日本人は日本語をつかうに
あたってあいまい表現を使用する傾向が
つよい、ということなのだろう。
『日本語はあいまいだ』というのは
まちがいである。あいまいなのは
日本語の性質に起因するのではなく、
この言語をつかうひとびとの使用法
なのである。このふたつははっきり
区別しておかなければならない。
もしもいまの日本語が『あいまい』だと
いうなら、それはあいまい表現をつかう
ひとがふえてきた、ということなのであろう。
『あいまい』はそれじたい悪ではない。
いろんないいまわしをつかって明晰にも
あいまいにも言語がつかえる、というのは
立派な言語技術なのである。
文明の言語というのはそういうことだ。」
(p108~109)

ということで、
しばらくは、本2冊
『自己表現』と『なんのための日本語』
とを座右に置くことにします(笑)。
コメント
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