伊藤正雄著「福澤諭吉論考」(吉川弘文館)
の序に、
「私が、近年に至って、福沢研究に着手する
やうになったのは、青年時代に親炙した故
沼波瓊音先生の影響が大きいやうに思はれる。
先生は、明治大正時代の異色ある俳人として、
また鑑賞力のすぐれた国文学者として著名で
ある。私が東大において、はじめて俳諧史の
講師たる先生から、芭蕉の講義を受けたのは、
大正末年のことであった。直観力の鋭い、
個性に富んだその講義は・・・
もしも私が若き日に、沼波瓊音といふ指導者
との出会ひに恵まれなかったならば、あるいは
福沢諭吉といふ偉大な文学者とも生涯無縁で
終ったかも知れない。瓊音先生の慷慨の志は、
魯鈍私の如き者にすら、そこばくの薫化を
与へられたといへよう。たまたま私は、今年
福沢の没齢、数へ年六十八歳に達し、あれを
憶ひこれを想うて、感慨の一しほ切なるもの
がある。・・・」
気になるのは、
福沢諭吉と松尾芭蕉との接点でした。
「福沢諭吉と国語の問題」と題した
講演のなかに、芭蕉が登場しておりました。
そこを引用。
「芭蕉は、『俳諧の益は俗語を正すなり』
と言ったと伝へられる。つまり旧来の和歌
とか連歌とかいふ貴族的、古典的な詩歌が、
卑しんで用ひなかった俗語俚言などの価値を、
芭蕉はよく認識して、これを俳諧の世界に
詩語として活用した。そこにはいはゆる蕉風
の俳諧といふものが、これまでの詩歌にない、
語彙の豊富な、内容の多種多彩な庶民芸術、
平民文学として成功した大きな意義がある
のでありますが、福沢がそれまでの古臭い、
型苦しい漢文調の文章の型を破って、俗談
平話をふんだんに採り入れた、自由自在な
平民本位の散文形式を編み出したことも、
日本文章史上、たしかに一つの画期的な
業績であって、いはば詩歌における芭蕉の
功績に通ふところがあるとも言へるやうに
思はれるのであります。」(p47)
の序に、
「私が、近年に至って、福沢研究に着手する
やうになったのは、青年時代に親炙した故
沼波瓊音先生の影響が大きいやうに思はれる。
先生は、明治大正時代の異色ある俳人として、
また鑑賞力のすぐれた国文学者として著名で
ある。私が東大において、はじめて俳諧史の
講師たる先生から、芭蕉の講義を受けたのは、
大正末年のことであった。直観力の鋭い、
個性に富んだその講義は・・・
もしも私が若き日に、沼波瓊音といふ指導者
との出会ひに恵まれなかったならば、あるいは
福沢諭吉といふ偉大な文学者とも生涯無縁で
終ったかも知れない。瓊音先生の慷慨の志は、
魯鈍私の如き者にすら、そこばくの薫化を
与へられたといへよう。たまたま私は、今年
福沢の没齢、数へ年六十八歳に達し、あれを
憶ひこれを想うて、感慨の一しほ切なるもの
がある。・・・」
気になるのは、
福沢諭吉と松尾芭蕉との接点でした。
「福沢諭吉と国語の問題」と題した
講演のなかに、芭蕉が登場しておりました。
そこを引用。
「芭蕉は、『俳諧の益は俗語を正すなり』
と言ったと伝へられる。つまり旧来の和歌
とか連歌とかいふ貴族的、古典的な詩歌が、
卑しんで用ひなかった俗語俚言などの価値を、
芭蕉はよく認識して、これを俳諧の世界に
詩語として活用した。そこにはいはゆる蕉風
の俳諧といふものが、これまでの詩歌にない、
語彙の豊富な、内容の多種多彩な庶民芸術、
平民文学として成功した大きな意義がある
のでありますが、福沢がそれまでの古臭い、
型苦しい漢文調の文章の型を破って、俗談
平話をふんだんに採り入れた、自由自在な
平民本位の散文形式を編み出したことも、
日本文章史上、たしかに一つの画期的な
業績であって、いはば詩歌における芭蕉の
功績に通ふところがあるとも言へるやうに
思はれるのであります。」(p47)