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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

巌(いわお)のような朝日新聞。

2015-08-06 | 朝日新聞
PHP研究所の新刊。渡部昇一著
「朝日新聞と私の40年戦争」を購入。

はじまりは

「1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改定は、
岸信介内閣に対する津波のようなデモで日本中を
驚かせました。
その日米安保条約が十年の期限を迎えて自動延長
に入る1970年(昭和45年)には、反対運動はさらに
凄まじいものになるであろう・・・そうした危機感
を背景に1968年(昭和43年)、林健太郎、福田恆存
らが中心となって京都大学名誉教授の田中美知太郎
を理事長として設立されたのが日本文化会議でした。
その事務局長・が・ヨーロッパから帰ったばかりの
私にも参加するよう誘ってくれました。
日本文化会議が設立された翌年(1969年)、
文藝春秋は論壇誌『諸君!』を創刊します。・・
『諸君!』の主な執筆陣は日本文化会議のメンバーでした。」
(p12~13)

ちなみに「はじめに」では

「私は元来、英語の教師です。」とはじまり、
「・・四十数年前、私ははからずも言論・論争の
世界に巻き込まれることになりました。その論争の
主たる相手が、巌のような朝日新聞だったわけです。
・・私が論争の世界に入った頃、朝日新聞は圧倒的な
権威であり、岩盤のような硬さと威厳を持っていました。」

その当時のことが、語られてゆきます。

たとえば、

「一つ確実に言えることは、新聞がそう報道することは、
事件の真偽にかかわらず、標的にされた人間の生活には
最高裁の判決が下ったと同じ働きをするということです。
そのことを記者たちは知っていたはずですし、
知らないですむことではありません。・・・
今ではインターネットで個人が反駁することも可能でしょうが、
当時は新聞に書かれれば書かれっぱなしで、
個人が反駁する手立てはほとんど皆無でした。」

「『朝日新聞』の虚構報道でデッチ上げられた
『渡部昇一はヒトラー礼賛者』であるというとんでもない
烙印は容易に消えず、私はしばらく『全体主義の手先』と
いった扱いを受けることになりました。」

「ただ、執拗に授業妨害を受けました。
とくにある障害者団体と団体は、
私が担当しているあらゆる授業に押しかけてきました。・・
当時、私は週六コマほど授業を受け持っていましたが、
すべての授業で妨害を受けるということが、
夏休み前後におよそ四カ月も続きました。
また、大学構内の最も目立つ場所に、『渡部教授を批判する』
という巨大な看板を立てられました。そこに書かれているのは
『朝日新聞』の虚構報道をもとにした私への罵詈雑言です。」


また、学校関係者の間でいかに『朝日新聞』の影響力が
大きいか、改めて思い知らされた。とp59にあります。
それは、四十年後の今、どうなのでしょう?

以後の「虚報常習犯の『朝日新聞』」(p90)を
ご自身に即して語られてゆきます。

見出しへの考察も歯切れがいい。

「たいていの読者は、
見出しを見るだけで記事を読んだ気になり、
実際に記事を丁寧に読むことはしません。」(p142)

この本を、丁寧に手に取る方のために
「見出し」に関する頁数を以下に。
p142・p143・p148・p149・p150・p151

「虚報で国際問題のきっかけをつくり、
『大スジ論』で逃げる『朝日新聞』の常套手段です。」(p203)


本文の最後には、
これからのテーマが語られておりました。

「『南京問題』でも北京と朝日新聞が一体となって
揺さぶりをかけてくるでしょう。日本政府は二度と
その圧力に屈してはなりません。・・
戦後は東京裁判史観にとらわれて、『シナ事変は
日本が悪かった』と思っている人が大半ですが、
私の世代はそう思いません。
そう思わなかった最後の首相が大平正芳氏で、
そう思った最初の首相が細川護○氏です。」
(p220)

いよいよ本の最後を引用。

「細川氏以前には東京裁判を認めるような
愚かな宰相はいませんでした。岸首相以来、
強烈な国家観を持つ宰相もまた、安倍首相が
出てくるまではいませんでした。それほど
安倍首相は確固たる国家観を持っています。
当然、朝日新聞は安倍首相を叩くでしょう。
私の朝日新聞との四十年戦争は、
まだまだ続きそうです。」(p221)


ちなみに、
『私の世代はそう思いません』とありました。
渡部昇一氏は1930年生れ。
佐々淳行氏も1930年生れ。
佐々氏の新刊は
「私を通りすぎたマドンナたち」(文芸春秋)
その序言をここに引用。

「『私を通りすぎた政治家たち』・・その本の帯に
『最後の手記』と銘打っていたが、ちょうど本の
刊行前に、私は心臓の大手術を受けたりしていた
こともあって、その言葉に嘘はなかった。しかし、
手術後、小康状態を得て、足腰下半身は年相応以上に
不自由ではあるが、幸いにも臍(へそ)から上は
ほぼ健康を回復している。・・・」


「私には娘はおらず、男ばかり三人生まれた。
孫には女性もいる。この世代がちゃんとやっていける
日本を維持しつづけるためにも、『老兵』の忌憚(きたん)
なき思い出話も役に立つのではないかと考え、
重い腰をあげて、『ラストメッセージ』『最後の告白』
をまとめることにした。」


お二人の話を、聞ける喜び。
それを、新刊で買える幸せ。








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