和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

名の知れた学者で、全面講和に反対した人はほとんどおられませんでした。

2015-08-07 | 道しるべ
渡部昇一著「戦後七十年の真実」(育鵬社)
をひらいて、サンフランシスコ講和条約の箇所をみる。
以下、そこからの引用。


「サンフランシスコ講和条約の署名が行われるときに、
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約が
日本の独立回復のための条約であることから、
各党の党首に党派を超えて『一緒に調印しましょう』
と呼びかけました。ところが、日本共産党と
日本社会党の二つの党は反対しました。
当時の共産党はソ連の支配下にあるようなものでしたから
反対するのはしかたがないのですが、問題なのは
野党第一党の社会党がなぜ加わらなかったか
ということなのです。
このとき『単独講和か全面講和か』という議論がありました。
単独講和とは講和条約参加国と個別に条約を締結するという意見、
全面講和とは参加国すべてと条約を締結するという意見です。
一見、全面講和のほうが単独講和よりも理屈が通っている
ように感じられるかもしれませんが、当時は東西冷戦が激しく、
朝鮮戦争で火を噴いている時代ですから、アメリカとソ連が
一緒に講和条約を結ぶ可能性はゼロでした。また、
講和条約そのものが日本を自由主義社会に組み入れるものですから、
ソ連が賛成するわけはなかったのです。
実際、講和条約に反対し署名をしなかったのは
参加した52か国の中でソ連とポーランドとチェコスロバキアだけ
でした。アメリカ主導の講和会議に反対したのです。
いずれも共産圏の三か国です。その他の国は
アメリカやイギリスと一緒になって日本と講和条約を結びました。
ですから全面講和ではないにしても絶対多数講和だったのです。
占領下で特別有利な地位を得た知識人たちのことを私は
『敗戦利得者』と呼んでいますが、この人たちは
全面講和に賛成するということで立ち上がりました。
その象徴的なリーダーは当時の東大総長の南原繁であり、
全面講和推進の知識人が集まる総本山が岩波書店でした。
これに反対して単独講和を支持したのは慶應義塾大学の
小泉信三塾長でした。小泉さんが『文藝春秋』に書いた
文章の内容を私は今でも覚えています。・・・・
毅然として全面講和派に問いかけたものでした。
当時、名の知れた学者で小泉先生以外に
全面講和に反対した人はほとんどおられませんでした。
・・・要するに・・・
全面講和という美名のもとに反対すれば日本が独立する
可能性はなかったのですから、全面講和論者は即、
日本の被占領状態延長主義者だったというわけです。
これが重要なのは、独立反対だった大きな野党第一党が
あったということです。東西冷戦の時代ですから
アメリカ主導の講和条約には反対だという共産党の
理屈はわかるとして、当時の社会党が反対したのは
なぜなのか。私はこれが戦後日本に今日まで続く
病原になっていると見ています。
日本の独立に反対した人たちが、独立したあとも
恥じることなく日本に住んでいる。そうした人々の
独立反対のDNAを受け継ぐ人たちが今なお
少なからず力を誇示している。
これが大きな問題なのです。」(p48~50)




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