注文してあった古本が届く。
古書ワルツ(東京都青梅市成木)
800円+送料300円=1100円
深川区史編纂会「江戸深川情緒の研究」(有峰書店・昭和50年)。
解説は、こうはじまります。
「深川情緒の研究は、原名を『深川情調の研究』といい、
大正15年3月に完成した『深川区史』の下巻として刊行したものである。」
パラリとめくると、
172頁の次の写真は、三代豊國の図「江戸名所百人美女」の「永代橋」。
裏に説明があるので、せっかくなので全文引用。
「 船宿の女房
『女天下』といはれた船宿の女房は、
飲んで、寝て、起きて、食ふのが仕事である亭主を
自分の権力下に置いて、家政一切を切り廻した
『きやん』の標本であつた。
図は三代豐國の『江戸名所百人美女』中の『永代橋』と
題するもので、大川端の船宿を描いたもの、
今しも女房が手あぶりと蒲団とを舟へ入れにゆくところである。
客が舟に乗ると、『お帰りにお寄り遊ばせ』と
船の軸を持つて押し出すのが常であつた 」
ちなみに、この『深川区史』が出た大正15年といえば、
たとえば、「大正震災志」が出た年です。
この本の序言(西村真次)にも、触れておりますので、
そちらも引用。
「深川区史編纂会が深川区の有志者によって組織され、
そこから『深川区史』が編纂、出版されることに決定した
・・それは大正11年7月のことであった。
爾来、和田氏は史料の蒐集、起稿要目の決定に従事し、
愈々執筆に就かうとした際、あの12年9月の大震火災で、
殆どすべての材料、草稿が焼失し、残ったものは
ほんの僅かばかりであった・・・・
書き綴りながら、私は幾度も幾度も震災の日を追憶して、
愚痴ではあるが、若しあの材料が焼けなかったらと
口惜まざるを得なかった。・・・
乏少の材料と有限の時間とでは・・
僅かに其外線を捕へたに過ぎなかった。
まことを云へば、研究はこれからである。・・
こうした未熟のものを、殆ど生の儘で版に上す・・」
せっかくですから、本の結語の最後の言葉も引用。
「本書に於ける私の意図は、主として江戸時代の情調を
明かにする点にあったから、或特殊の場合の外は
明治以後には触れなかった。明治時代の深川情調は
江戸時代の残片であり、それは辛じて大正時代まで
生命を続けてゐたのに、大正12年の大震火災によって、
殆ど根底的に覆されてしまった。
焼けた灰の下、砕けた石の裏、沈んだ船の底には、
今まさに旧情調の養分が新情調を育みつつあるのを私達は見る。
・・・今日は即ち旧情調と新情調との分界点である。
新情調の光輝が旧情調の上を越えてさすであろうことは、
ひとへに深川民衆の努力に期待せられねばならぬ。
私は本書の末尾に於いて、後に来るべき深川情調の
光輝と栄誉とを祝福する。」
古書ワルツ(東京都青梅市成木)
800円+送料300円=1100円
深川区史編纂会「江戸深川情緒の研究」(有峰書店・昭和50年)。
解説は、こうはじまります。
「深川情緒の研究は、原名を『深川情調の研究』といい、
大正15年3月に完成した『深川区史』の下巻として刊行したものである。」
パラリとめくると、
172頁の次の写真は、三代豊國の図「江戸名所百人美女」の「永代橋」。
裏に説明があるので、せっかくなので全文引用。
「 船宿の女房
『女天下』といはれた船宿の女房は、
飲んで、寝て、起きて、食ふのが仕事である亭主を
自分の権力下に置いて、家政一切を切り廻した
『きやん』の標本であつた。
図は三代豐國の『江戸名所百人美女』中の『永代橋』と
題するもので、大川端の船宿を描いたもの、
今しも女房が手あぶりと蒲団とを舟へ入れにゆくところである。
客が舟に乗ると、『お帰りにお寄り遊ばせ』と
船の軸を持つて押し出すのが常であつた 」
ちなみに、この『深川区史』が出た大正15年といえば、
たとえば、「大正震災志」が出た年です。
この本の序言(西村真次)にも、触れておりますので、
そちらも引用。
「深川区史編纂会が深川区の有志者によって組織され、
そこから『深川区史』が編纂、出版されることに決定した
・・それは大正11年7月のことであった。
爾来、和田氏は史料の蒐集、起稿要目の決定に従事し、
愈々執筆に就かうとした際、あの12年9月の大震火災で、
殆どすべての材料、草稿が焼失し、残ったものは
ほんの僅かばかりであった・・・・
書き綴りながら、私は幾度も幾度も震災の日を追憶して、
愚痴ではあるが、若しあの材料が焼けなかったらと
口惜まざるを得なかった。・・・
乏少の材料と有限の時間とでは・・
僅かに其外線を捕へたに過ぎなかった。
まことを云へば、研究はこれからである。・・
こうした未熟のものを、殆ど生の儘で版に上す・・」
せっかくですから、本の結語の最後の言葉も引用。
「本書に於ける私の意図は、主として江戸時代の情調を
明かにする点にあったから、或特殊の場合の外は
明治以後には触れなかった。明治時代の深川情調は
江戸時代の残片であり、それは辛じて大正時代まで
生命を続けてゐたのに、大正12年の大震火災によって、
殆ど根底的に覆されてしまった。
焼けた灰の下、砕けた石の裏、沈んだ船の底には、
今まさに旧情調の養分が新情調を育みつつあるのを私達は見る。
・・・今日は即ち旧情調と新情調との分界点である。
新情調の光輝が旧情調の上を越えてさすであろうことは、
ひとへに深川民衆の努力に期待せられねばならぬ。
私は本書の末尾に於いて、後に来るべき深川情調の
光輝と栄誉とを祝福する。」