和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

語尾でもがく。

2007-10-15 | Weblog
山川健一著「【書ける人】になるブログ文章教室」(ソフトバンク新書)
を読んでいたら「日本語は語尾が重要だ。【です・ます】調で書くにせよ【だ・である】調で書くにせよ、語尾の選択は文章の全体を引き締めもするし、だらだらとした頼りないものにもする。・・・」(p124~129)という箇所が印象に残りました。

そこから、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文芸春秋社・p152~153)と、
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」(研究社)の序説を思い浮かべたのでした。ということで、語尾と古文との関連を芋づる式に連想しました。

それでは、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」。
その第五章は「訳す・読む・話す」です。そのなかにこんな箇所があるのを思い出したのです。

「外国人として日本語を書く場合、もちろんハンデキャップはある。一番むずかしいのは言葉の選択であろう。だがそれ以外に、表現がどことなく日本的でないという場合が多いのである。【である】と書いてもべつに差し支えのないときにも【でないこともない】と書くのなどは、日本語の論文らしく見せるための一つのコツであろう。・・・・曖昧さを残す文章は、とくに評論などでは、英語の場合はあまりいい文章とはされない。一般に曖昧はよくないのである。それに反して日本語では、曖昧さがそれ自体として喜ばれることが多い。曖昧でない文章は固すぎ、あざとすぎると思われるのである。だが、そんなことよりもっと日本語のむずかしいところは、なんでもないような点、従ってそれだけに日本語的な点であろう。【・・・と私は思う】と書くべきか、または【私は・・・と思う】と書くべきか、意味は同じでも前後の関係や内容によって、自然になったり不自然になったりする。そのような選択は、文法よりむしろ文章の問題であり、日本人でも迷うのではないだろうか。英語にも、もちろん表現の選択はある。しかし、【正直に言って】、【正直に言うと】、【正直に言えば】・・・三つとも意味はまったく同じだが、いざ書くとなると迷わざるをえない。どういう場合にどれを使うべきか、それとも文章全体のニュアンスからそのときどきに判断するほかないのか。・・・」


もう一度、山川健一の新書から引用してみます。

「語尾とは文法的には活用する語の変化する部分を言う。これに対して変化しない部分を語幹と言う。だが、この際そんなことはどうでもいい。とにかく文法上の語尾ということではなく「。」の直前の言葉を自由にたくさん使えることが大切なのだ。・・・思いつくままにいろいろな種類の語尾というか、文末を締めくくるための表現をあげていこう。」
こうしてあげている言葉が並ぶのです。

「だ・だよね・だった・だったよね・だったけど・などである・なのだろうか・ちがいない・ほかならない・気がする・気がしないでもない・かもしれない・なる・なっている・なるはずだ・と思う・と思った・と思わざるをえない・と思うほかなかった・と考える場合もある・と考えられなくもない・と考えている人がいても不思議ではない・いけない・いけないのか・いけないのだろうか・すぎない・すぎないではないか・すぎないのではないだろうか・すぎないと言うべきだ・と知るべきだ・の地平を切り開いた・に等しい・してみたい・してみようか・してみようかな。このあたりでやめておくが、文末を締めくくるための表現はほぼ無限に存在するのだ。」(p125~129)


ここから古語へと補助線を引きたくなるわけです。
松尾聡著「古文解釈のための国文法入門」の序説は、こうはじまっておりました。

「諸君は次の問いに答えられるか。もし答えられないのだったら、この本を読む必要があるだろう。なぜと言えば、諸君は、古語についてきわめて初歩的な知識さえもしっかり身につけていないことが確かなのだから。」

こうして問題というには「つぎの中古(口語)文または上古(口語)文を正確な現代(口語)文に言いかえよ。」

ということで、問題のはじまりをすこし並べてみます。

「花咲かむ・花咲くらむ・花咲きなむ・花咲かなむ・花咲きけむ・花咲きけり・花咲けり。花咲けりけり・花咲きぬ・花咲きにき・花咲きたり・花咲きしか・花こそ咲きしか・花こそ咲かね・花こそ咲かね、春は来にけり。・・・・・」とまだ問題はまだ続くのでした。

でもなあ、答はわからなくとも、私はこの国文法入門を読む気もしないしなぁ。
そういえば、ドナルド・キーンさんの鼎談「同時代に生きて」で、面白い箇所がありました。それは鶴見俊輔さんが語っているとこです。

「私がいたのは、コンコードとケンブリッジで、マサチューセッツ州のそこにじっとしていて、本ばかり読んでいたわけです。私の知っている英語は、そこの英語なんです。・・・それが日本語にも妙な影響を与えるんですよね。本のタイトルを考えるときも、だいたい英語からくるんです。だから『私の地平線の上に』というのは、[on my horizon]で、逆にそこから上がってくるんです。私は海軍ですが、・・・自分の思っていることを言ったらぶっ殺されますよ。だから、じーっと隠して、日本語だけ。その癖が、戦後七、八年抜けなかったんです。日本語で書こうと思うと、そこに無理がいく。だから、ひどい日本語をずっと書いてきたんです。そして、そのプロセスで志賀直哉の助言を得たんです。志賀直哉は、こう言ったんです。『日本語の中の、名文というものを暗唱して、これに自分を近づけようと思ってはいけない。日本語と英語とのあいだのドブにおっこったら、その中でもがいていけ。それが自分の文体を作るだろう』と。これは名言だと思う。」(p131~132)

ちなみに、私などは、鶴見俊輔氏の本を楽しく読んでいたのですが、そういう読者にとっては、どのような文体の影響があるのでしょうか。という疑問にもちゃんと答えておりました。

<鶴見俊輔>いまの日本の風俗の中に、【外国】というのが入ってきているでしょう?その入り方が、明治以前の入り方と違っているんですね。言葉も入っているし、映画やテレビから身ぶりとしても入っているし、考え方も混ざってきていますね。だから、私は日本語だけを使おうと努力しているんですけれど、底のほうに別のものがあるんです。
<瀬戸内寂聴>いま、外国語の言葉のままでは困るから、日本語に直そうというので、日本語がますます変なことになって、あれ、困るんじゃないですかねえ。
<鶴見>英語がわかっていないと、日本語がわからないということがありますね。そういう目から見ると、大正文学では谷譲次(林不忘、牧逸馬のペンネームも持つ。1900~35)というのが大変面白いんですよ。
                          (p133~134)

これじゃまとまりそうもないので、
最後に、ドナルド・キーンさんの「けじめ」をもってきます。
それは翻訳について語ったものです。

「というわけで、自分が英語で書き日本語にも訳したという本は、これまで一冊もない。それでいて、日本語を英語に訳すことなら、できる。どんなに日本的な表現でも、一応英語らしい英語に直すことが可能である。逆の場合は、原文の英語に忠実に訳そうと思えば不自然な日本語になり、意味を移すには移せるが、翻訳の過程で原文の一部が消えてしまう。英文和訳のくろうとの場合は、その微妙な「消失」を避けうるのである。従って私は、日本語を英語に訳すときの自分はくろうとだが、その逆は素人だと承知している。そして、くろうとと素人の間には、はっきりしたけじめがある。・・・」(ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」第五章)


 


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縁側はなし。

2007-10-14 | Weblog
読売新聞1面コラム「編集手帳」が、私は好きです。
詩歌の引用が魅力で、詩歌アンソロジー本では、ちょっとお目にかかれないような言葉を読める時があります。まるで、詩歌との偶然の出会いがお膳立てされているように感じられるのです。もちろん、時事コラムとして、詩歌と時事とがうまく噛み合わないこともあるのですが、それでも一篇のコラムとして、うまく出来た時の味わいは、また格別なものがあります。


ところで、2007年10月3日「編集手帳」は
「おそらくは縁側だろう。」という言葉から始まっておりました。

  おそらくは縁側だろう。
  三好達治に「燈火」と題された四行詩がある。
 「 書は一巻 淵明(えんめい)集
   果は一顆 百目柿
   宿舎の夜半の静物を
   馬追ひのきてめぐるかな   」
  ひと雨ごとに秋が深まり、灯の色が目にしみる季節になった。
  縁側はなし、スイッチョと鳴く虫も上の階には来てくれず、
  淵明集も書店でそうは目にしない。
  詩人の夜半をまねるにも骨の折れるご時世である。
  東晋の漢詩人、陶淵明は41歳で官職を辞し、
  帰郷して晴耕雨読の日々を送った。
  「盛年 重ねて来たらず」(元気ざかりの若い時は二度と来ない)
  とうたった人である。
  ・・・・・・・・・・・・・

(注:「馬追ひ」とは、スイッチョと鳴き声が聞こえるキリギリスに似た虫のこと)


思わずコラム全文を引用したくなってしまいますが、このくらいにして
私が面白く思ったのは、「縁側」という言葉からはじめていることでした。

思い出すのは、「久世光彦の世界 昭和の幻景」(柏書房)に
テレビドラマ演出家の久世さんが対談で語っていた言葉です。
「茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。」(p215)

話はかわるのですが、「諸君!」(2007年10月号)に、特集「読み巧者108人の【オールタイム・ベスト3】」というのがありました。その中のお一人・徳岡孝夫氏は、3冊並べた最後に幸田露伴著「太郎坊」(岩波文庫)をあげておりました。その「太郎坊」を語って「三十分あれば読める短篇小説だが、読めば死ぬまで忘れないだろう。主人(あるじ)と細君とあるだけで、登場人物には名すらない。ある夏の夕方、晩酌の間に起きる出来事で、これも外国の小説にない終わり方をする。」

はじめて聞く題「太郎坊」というのに、私は興味をもちまして(何しろすぐに読めそうな短篇とあるし)。さがして読んでみたというわけです。

その内容もさることながら、書き出しの様子が印象に残ります。
ということで、引用。
真夏の夕方「お日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる」頃です。

「・・・主人は甲斐甲斐しくはだしの尻端折で庭に下り立って、蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。丈夫づくりの薄禿の男であはるが、其余念のない顔付はおだやかな波を額に湛え・・細君はシチリンを煽いだり、包丁の音をさせたり、いそがしく台所をゴトツカせて居る。・・・下女は下女で碓(うす)のような尻を振立てて椽側(えんがわ)を雑巾がけしている。・・・」
主人(あるじ)が、それから銭湯へと出かけて帰ってくる。
「・・まくり手をしながら茹蛸のようになって帰ってきた。椽にハナゴザが敷いてある、提煙草盆が出ている。・・黒塗の膳は主人の前に据えられた。・・
庭は一隅のあお桐の繁みから次第に暮れてきて、ひょろ松檜葉などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何とも云えぬすがすがしさを添えている。主人は庭を渡る微風に袂を吹かせながら、おのれのほねおりが作り出した快い結果を極めて満足しながら味わっている。」(何箇所か漢字などを適当にかえました)


ということで、縁側について
編集手帳・久世光彦・幸田露伴と並べてきました。
その三つで、ここから私は渚を思い浮かべました。
縁側から「波打ち際」へ連想がはたらいたのです。

谷川健一著「独学のすすめ」(晶文社)にウブスナの語源を語った箇所があります。最後は、その引用。

「大昔は産小屋は渚につくられる習慣のあったことを物語っています。
渚はあの世とこの世との継ぎ目であり、現世と他界のいちばんの接点であると同時に、自然のリズムを感じられるところでもあります。波がよせ、波が引き、潮が満ち、また引き、季節の変わりめごとに渡り鳥がやってきて、嵐のあとに海草や流木が流れつく。自然のリズムがいちばん鋭敏に感じられる場所が渚なのです。」(p244)

そうかと、思うのです。
渚が「自然のリズムがいちばん鋭敏に感じられる場所」ならば、
たとえば私は、竜安寺の椽に座って、庭を眺めている場面を思い浮かべます。家に縁側を持つということは、どういうことなのか。
それが、現実にもどれば「縁側はなし」。

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ブログの先達。

2007-10-13 | Weblog
徒然草の中に「仁和寺(にんなじ)のある法師」が登場する第52段があります。一読印象深く、こうしめくくられておりました「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」。ちなみに、この「先達(せんだつ)」の意味はどうだったかというと「山伏たちが峰入りする時、一行の先頭に立って導く修験者。ここでは、案内役の意」(岩波文庫「徒然草」より)。

近頃、山川健一著「【書ける人】になるブログ文章教室」(ソフトバンク新書・2006年11月)を読んだのです。まずは、ブログ案内役としての著者略歴を引用しましょう。
「1953年生まれ。小説家。・・デジタルカルチャーへの造詣が深く熱心なマックユーザーとして知られ、・・現在は、サイバーエージェント系列の出版社であるアメーバブックスで取締役編集長を務め・・」とあります。

それでは、ブログ案内役の前口上。

「ブログはしょせん『日記』にすぎないという意見をよく聞く。しかし、じつは『日記』文学や随筆こそは日本に独特な、豊かな文学の母胎なのではないかとぼくは思うのだ。日記がジャーナリズムに劣るという発想は、どこか貧しい。・・」(p25)。
そしてあとがきには
「そしてこれだけは断言できるが、才能を欲しいままにしてパッと散る人生よりも、だらだらと書きつづける人生のほうがはるかに楽しい。出会いだって多い。【書ける人】を目指して努力する日々はいつでも輝いており、飽きることがなく、30年ぐらいあっと言う間だ。」(p240)

【飽きる。飽きない。飽きることなく】ということで案内役は、こういう角度から語りかけます。

「ぼくは、自分はきわめて飽きっぽい人間だと思っている。だが50年以上この自分というものと付き合っているが、今のところ飽きたことがない。誰でも、そういうものなのではないだろうか。そして、原理的に、自分に飽きない限り文章を書くことに飽きるはずはないのである。ブログの更新に飽きたというのは、じつは文章を書くことそのものに飽きたのではなく、文章を書く技術の進歩が滞っているからではないだろうか。少なくとも、そう疑ってみる必要はある。」(p80)


さて、読者がこの【滞り】に注意が及ぶとですね。それにたいする、さまざまな先達からの励ましを、この新書のところどころから聞くことが出来る仕掛けになっております。
ここでは、私が読んで気づいた【励まし】を、ちょいと取り上げてみます。

「何人かのミュージシャンが集まり、基本的なキーやコードだけを決めて、即興演奏を楽しむのである。何かについて文章を書く作業は、このジャムセッションによく似ている、とぼくは思う。・・・ミュージシャン達と、素晴らしい即興演奏を繰り広げること。それが、文章を書くという行為なのだ。すると、そこで不思議なことが起こる。相手のミュージシャンのことが鮮明にわかってくるにつれて、自分のこともわかってくるのである。」(p78~79)

【そこで不思議なことが起こる】という箇所は、たとえば、登山中に、思いもかけぬ眺望がひらけるような瞬間にたとえられるでしょうか。それでは登山で一歩も前に進めなくなった時、不安になった時は、どういう心構えを持てばよいのか。それを語った箇所もあります。

「今書いている自分のブログを信じてやるべきだし、それを書いている自分を信じてやるべきだ。もうやめたいなんて悩んでいたとしても、まだ書き終わっていないその作品を愛してあげられるのは、とりあえず自分だけしかいないのだ。・・・・そして、自分が書いたのと同じ質量をもって他者はその作品を読むことが可能なのだ。そう確信することなしには、やはり一行も書けないものだと思う。これは、気持ちの問題をいっているのではなく、表現というものが原理的にそういう可能性を内側に秘めているということだ。読み手は書き手と同じ高みまで行けるはずなのである。だから、本というものを読むという行為が成立するのではないだろうか。」(p212~213)

他にブログノート説とか、ブログ町医者説とか、さまざまな角度から、このブログの先達の貴重な励ましの言葉を聞くことができます。そういう意味ではブログ継続の常備薬として置いといて、忘れた頃に服用するのもよさそうです。
そうそうこんな箇所もあるのでした。
「途端にアクセス数が落ちる。これも悲しい。ランキングがちょっとでも落ちると一日何もやる気がしない、という人は案外多い。」
へ~こんなことまで書いてあると、思わず笑ってしまいました。

ということで、ブログ継続常備薬としてご家庭に一冊。
藁をもつかみたいブログ体験者へ、平常心のありかを教えてくれる一冊。

そういえば、こんな箇所がありました。そこには【普通の人間・普通の人々】宣言が語られております。最後にそこを引用して終わります。

「大切なのは、自分の立ち位置をはっきりと決め、優越感と劣等感の両方から自由になり、『普通の人間』として心を込めて文章を書くことではないだろうか。・・開き直らず、落ち込まず、『普通の人間』としての優しさとタフネスを持ち、心を込めて書く。それが大切だとぼくは思う。・・・ぼくが言いたいのは、すべての人が共通の言葉を使用しながら、しかし万人に共通する文章修業の方法はないということだ。だが、ここが言葉というものの素晴らしいところだと思うのだが、一般的な文章訓練の方法なんて存在しないにもかかわらず、その結果生まれた言葉はすべての人が共有することができる。」(p70~73)
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11万人の魔術。

2007-10-12 | 朝日新聞
週刊新潮2007年10月18日号が、今日(10月11日)発売。
特集【米軍基地を「人質」に取られた沖縄戦「集団自決」論争】(p136~139)を、さっそく読んだわけです。はじまりはこうでした。

「・・『福田政権は、膠着した米軍基地の移転問題を打開するためにも、教科書検定の見直しに、事実上、政治介入したということです』と話すのは、首相官邸関係者である。教科書検定は、有識者からなる『教科用図書検定調査審議会』で行われ、建前上は政治介入を排除している。しかし、9月29日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で行われた『教科書検定意見撤回を求める県民大会』に11万人(主催者発表)が集ったことで、政府のスタンスは揺れた。・・」

まあ、こうして特集は書き始められておりました。11万人の数字についても、ちゃんと調べております。
「元はといえば、政府が抗議集会に11万人も参加したことに驚き、慌てて教科書検定への【政治介入】を決めたことに問題がある。その数字は主催者が発表したものだが、『まず、参加者が11万人もいたというのは、間違いなく嘘だと言えます』と語るのは、沖縄在住のジャーナリストの恵隆之介氏である。『会場となった宜野湾海浜公園には、人がぎっしり入ったとしても5万人が限度。ですから、当初は主催者も【5万人が目標】と言っていたのです。11万とは、肩車の上に肩車をしてようやく収まるような数字。県警によれば、密集したとしても1平方㍍に収まるのは4名くらい。航空写真から見てみると、会場には結構隙間がありました。日傘をさしている人や、敷物の上に座っている人がいたためです。我々の計測だと、参加者は3万5000人です』沖縄県警が内々に見積もった数字では約4万人。動員をかけられて、集会に参加した人達も大勢いる。『本土からの参加者も多数見られました。・・・』・・・・集会には何故が韓国からの参加者も少なからずいて、従軍慰安婦問題のビラを配っていたという。・・・主催者発表の数字を鵜呑みにして狼狽する政府も滑稽ではないか。」


ちょど朝日の古新聞を今日もらってきました。
さっそく9月30日の一面を見ますと、見出しが横に「集団自決 軍が関与」とあります。縦見出しは「沖縄11万人が訴え」。写真はといいますと、たとえば、東京新聞の一面が上空からの写真で空いたスペースや日傘のようすがわかるように取られておりますが、朝日は主催者側のステージから壇上の背中を写して背景に隙間なくビッシリとステージに向かって話を聞いている人たちを写しております。この角度からは人たちの頭がズラッと重なって見える壮観さ。

興味深いのは、前日の9月27日朝日第二社会欄。そこには「集団自決「軍が強制」削除」「反対議決 沖縄以外でも」という見出しのところです。ちゃんと日本地図が図入りで紹介されております。【検定意見の撤回を求める意見書を採択した議会】として、沖縄以外に5県が黒く斜線で塗りつぶされております。よく見ると笑える仕掛けがしてあります。たとえば、塗りつぶされている宮崎県では、1つの町(美郷町)だけです。しかも9月28日に本会議とあるから、いまだ採択されていない。ほかも県も似たり寄ったりという始末。沖縄の宜野湾市の大会は29日ですから、だれも詳しくなど読まないと見越してのトリックの日本図です。お膳立ての用意は整っておりました。私なら用意周到な確信犯としたいところです。

10月2日の朝日一面見出しは【「集団自決」検定。文部省が対応検討】とあり、
すかさず、主催者発表という言葉をカットして「9月29日に開かれた沖縄県民大会に11万人が参加したことから・・」と、もう朝日は人数を確定して、既成事実化の段階に入りっております。
あとは、10月3日一面コラム天声人語で「沖縄は怒った。抗議の県民大会は11万人でうねった。」と繰り返し、読者への刷り込みに余念がありません。ちなみに、この10月3日の産経抄が「関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか事実を発表できないのです。・・」と書いておりました。このコラムの違いこそ、注意深くも、国語・社会科などをあわせた総合学科の教材としたいところであります。

こうして、産経新聞10月7日の一面で「沖縄教科書抗議集会参加者は【4万人強】」という見出しがでても、朝日がイチャモンをつけて、場外乱闘よろしくシラを切ればどうなるか。
週刊新潮10月18日号の「ワイド特集」の中の「2週間【コラムで罵り合い】朝日と産経の【ガキのケンカ】」という見出しの短文(p51~52)が、一般の受け止め方でしょうか。そこでは上智大学の田島泰彦教授の言葉を引用して「そもそも議論は、安倍政権の評価について始まりました。産経が途中から沖縄の集会を持ち出しましたが、論点を変えずに議論を深めてほしかったですね。・・朝日も、産経の揚げ足を取っているだけ。読者がこんな論争で満足すると思っているんでしょうか」。こうして田島教授の意見を引用しておもむろに「読者不在の、実に無意味な罵り合いだった」としめくくっております。おいおい、同じ週刊新潮ですら、記事によって、これですから、いったい他はどうなのでしょう。

もし、この問題が何年もして再燃した場合、朝日新聞が書く手順はわかっております。まず【各新聞が2007年9月30日に「沖縄11万人が訴え」と書いていた】と記載の事実を堂々と指摘するのです(しかも、その後の経過については、お茶を濁します)。現在朝日新聞は人数の訂正をしておらないでしょう。訂正もせずに、うやむやにしておくとよいことが朝日新聞にはあるのです。沖縄の11万人はまだまだ朝日新聞としては、使える数字なのです。しかも何年かたってから、皆さんが思いもしない頃を見計らって、その「11万人」論を展開するのです。私は予言してもよい。さりげなく数字が独り歩きする頃合を見計らったように、朝日の数字の魔術を、繰り返すのです。ですから、週刊新潮の記者のように、【ガキのケンカ】などと傍観者の語りをするべきではないのです。そんなことをしていると、11万人が、中国式に数倍に膨れ上がり、じつは22万人以上だったとか、まことしやかに某氏が語っていたという記事に化ける。そんな危険な要素を含んでいるのだと、認識しておくべきでしょう。考えても御覧なさい、朝日新聞購読者はいまだ11万人を訂正されておらないのです。
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蝉と十月蠅。

2007-10-10 | Weblog
新聞の俳壇歌壇は、季節がすこしずつズレますね。たとえば蝉。
読売俳壇(10月1日)を見ると蝉が目につきます。

 かなかなや古ぶ子規碑と茂吉の碑   山形県 柏原ただを

これは森澄雄選の俳句で、選評はこうあります。
「作者は山形県大石田町の人。最上川中流域にあり、乗船寺境内には子規の【ずんずんと夏を流すや最上川】の句碑と茂吉の【もがみ川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも】の歌碑が立つ。かなかなが鳴いている。」

森澄雄選では、ほかに蝉の句がふたつ。

 羽衣の松に秋蝉すがりゐる   東京都 松島大地

 蜩の声の彼方の夕日かな    市原市 関 典久


成田千空の選も忘れがたい句が並びます。まず最初はこれでした。

  いくたびも手返しの稲掛けにけり  津市 中山いつき

成田千空の選評はというと
「刈りとった稲を乾燥させるのも、機械化された今日だが、この句は棒ハザに幾度も手返しをして干す稲である。狭い田んぼであろう。太陽でねんごろに干す稲である。」
そして、次の二番手の句は、これが選ばれておりました。

  抜け殻もなきがらもあり蝉しぐれ  福岡県 うえだひろし

その千空の選評はというと、
「蝉がさかんに鳴いている。短い命のかぎりを鳴いている。あちらこちらに抜け殻が散らばり、骸もころがっている。やがて死ぬけしきがはっきりと見える蝉しぐれである。」


「諸君!」11月号に、古田博司氏の新連載がありました。
新連載の題はというと「乱蝉亭漫筆」。書きだしにこうあります。

「今は昔、本稿は岩波書店『世界』誌に1996年4月号から98年4月号までの2年間、同名のタイトルで連載した随筆の続編である。その間、時代は大きく変わった。」

そして、はじまりは、こうあります。

「今年の夏は、乱蝉(せみしぐれ)喧しきなか、筑摩書房依頼の新書『新しい神の国』を書き上げ、ようやく我を取りもどして戸外に出ると、すでに生殖を終えた蝉の屍骸が、秋の日の松ぼっくりのようにコロコロと足下に転がっていた。もとより荒れた家の周囲は蛇や蛙の住処となり果て、気遠(けどお)き木立には筑波の椋鳥が浮塵子(うんか)のように群をなして留まりさんざめく有様。・・・」


おいおい、これからどういう連載になるのやら。気になる書き出しです。

虫といえば、枕草子に「虫は」とはじまる第43段が思い浮かびました。
虫でおもしろいのは、鈴虫・ひぐらし・ちょう・松虫・きりぎりす・はたおり・われから・ひお虫・ほたる、などと列挙してはじまり、そうそう蠅も登場しておりました。

「はへこそ憎きもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。人々しう、かたきなどにすべきものの大きさにはあらねど、秋など、ただよろづの物にゐ、顔などに、むれ足してゐるなどよ。・・」

原文はこうですが、これじゃ内容がわからない。訳はこうです。
「はえこそは憎らしいものの中に入れておくべきであって、かわいげのないものである。人間並みに扱って、相手にするほどのものではないが、秋など、ただもうあらゆる物に止まり、顔などに、濡れ足で止まったりなどするよ。・・」


外が寒くなってくると、蠅が家にはいってくるので困ります。
髪の毛にからまってきたり、それこそ顔にぶつかってくる。
さて枕草子にも登場する蠅ですが、現代の歌壇俳壇には秋の蠅はでてくるのかどうか?五月蠅なら一般的ですが、清少納言の顔に濡れ足で止まる、秋の蠅。





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何度か訪ねて。

2007-10-09 | Weblog
産経新聞を購読する喜びを、あらためて味わうことがあります。

先に10月3日「産経抄」が指摘しておりました。

「・・先月29日に開かれた沖縄戦での住民の集団自決をめぐる教科書検定への抗議集会の報道ぶりです。貴紙(もちろん朝日新聞のこと)は1面で『沖縄11万人抗議』と大見出しをとり、きのうも『県民大会に11万人が参加した』と書いておられます。でも、11万人は主催者発表の数字です。記者は何の疑問も持たなかったのでしょうか。抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方㍍、つまり160㍍四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう。もったいぶってすみません。関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか事実を発表できないのです。江藤淳先生が生前、指摘された『閉ざされた言語空間』がなお存在するようです。主催者発表通りに集会の規模を2.5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中の大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。・・」

そして、産経新聞10月7日の一面。
「沖縄教科書抗議集会 参加者は『4万人強』」「『11万人』独り歩き」という見出し(比護義則、小山裕士の二人の署名記事)。「県警幹部は産経新聞の取材に『実際は4万人強だった』(幹部)と語ったほか、別の関係者も4万2000~4万3000人と証言している。」

「沖縄県警は、参加者の概数を把握しているが、『警察活動の必要な範囲で実態把握を行っているが、発表する必要はない』(警備部)として、公式発表を控えている。これには背景がある。12年前の県民大会参加者数を主催者発表より2万7000人少ない5万8000人と公表、『主催者から激しくクレームをつけられた』(関係筋)経緯があるからだ。警察が発表を控えた結果、主催者発表の11万人という数字があたかも事実のように独り歩きし始めた。」

「朝日新聞(東京)は、1面トップで『沖縄11万人抗議』の見出しを載せ、10月2日付朝刊では、主催者発表の注釈を抜いて報道した。産経新聞も10月2日までは主催者発表と明記して11万人と報じたが、3日付の『産経抄」などで主催者発表に疑問を呈した。」


この産経新聞の誠意に頭が下ります。
ところで、朝日新聞の購読者は、産経新聞のこの1面を読まない限り、もう11万人が刷り込まれてぬけていないと判断してよろしいでしょうね。可哀想なのは朝日新聞購読者で、産経新聞の購読の喜びはここにあります。
国内でこれですから、中国の関連の数値も、朝日新聞の数はまず疑ってみなくてはなりますまい。まずは疑わなければならない辛さ。つぎつぎと数倍の数値を平気でつりあげてしまう数字の魔術。これが、朝日新聞「ジャーナリスト宣言」の正体。それでもね、まだ朝日新聞を信奉する方々がおられる。改修はむずかしくとも、ゆっくりと丁寧にいきましょう。
それにつけても、産経新聞購読の喜びは、ここですね。
これを知らない人がいるとは、もったいないなあ。
ひょっとすると、こういう事実に対する、もったいなさ、という視点がどうしても欠けているのかもしれないわけで。数字の魔術を、突き崩せない。
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花納め。

2007-10-08 | Weblog
こちらでは、10月7日山車引き回し。今年は晴天で参加者多数。
10月8日は後片付け、そして花納め。
こうして2次会は午前様。
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詩集出版記念会。

2007-10-07 | Weblog
日経新聞2007年9月30日の文化欄に荒川洋治氏が「文学談義」と題して書いておりました。その最初が面白かった。
こうはじまります。
「すぐれた文学作品は、想像と思考の力を授けてくれる。人の心をつくる。人間の現実に、はたらきかける。・・人が集まると、何人かは文学談義をしたものだが、いまは見かけない。」この出だしがちょいと、面白かったので、荒川氏のあとの文は、どうでもよくなりました。私なりに思い当たる場面があったからなのです。それを語ります。

伊東静雄を読んでいたら、面白い詩人の風景を読むことができました。
ひとつは、江藤淳著作集続2「作家の肖像」(講談社)にある「伊東静雄の詩業について」。
もうひとつは、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)です。

どちらも面白かったのは、詩集の出版記念会のことなのです。
まずは、「伊東静雄の詩業について」にある箇所を引用してみます。

「『わがひとに与ふる哀歌』は、1935年、昭和10年の10月5日に発行された。・・出版されますと、翌11月23日、伊東静雄ははじめて上京して、自分の出版記念会に出たのであります。・・・この頃の出版記念会は、どうやらひじょうに小ぢんまりしたものであったらしい。そして、この当時の詩壇もまた、まああまり大きなものではなかったように思われる。だから、一度出版記念会をやると詩壇がすっぽりおさまってしまう。・・萩原朔太郎をはじめ、三好達治であるとか、中原中也であるとか、多士済々な人々が集った。」
「ところで、小高根氏の『詩人、その生涯と運命』によって見ますと、・・・萩原朔太郎が、この席上で、伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』を、言葉をきわめてほめたのです。伊東の作品を特徴づけている沈痛な深い悲劇性、それをストイックな自己抑制で、はっきりした構成感のある詩につくりあげているということ、そのすべてを朔太郎は言葉をきわめてほめた。・・・好対照をなして三好達治が非常に冷たい批評をした・・まあ当時は出版記念会といっても今日のようなお座なりではなくて、好きなやつは好きだと言い嫌いないやつは嫌いだとわりあいはっきりいう。そのうちにとっくみあいの喧嘩になったりして、文壇でもだれかと林房雄が喧嘩をしたという有名な話がありますけれども、この頃はまあそういう雰囲気だったようであります。まあこの席ではとっくみあいにまではならなかった・・・」

その8年後。杉山平一の処女詩集「夜学生」の出版記念会があります。
その出版記念会に伊東静雄が来ていたというわけです。
それを杉山平一著「戦後関西詩壇回想」からひろってみます。


「昭和18年(1943)年3月17日、小野十三郎の『風景詩抄』との合同出版記念会だった。・・席上、藤沢桓夫は、小野十三郎の物の見方を『小野めがね』と評したり、新しい故の鋭い評言が飛び交っていたなかで、伊東静雄が、ときめく藤沢桓夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・私の詩集『夜学生』は、のち賞を貰ったりしたが、その評が「四季」の74号(昭和18年5月号)に、北川冬彦によって書かれている。・・・・北川さんが精一杯の社交辞令に包んで酷評されているのが私にはよくわかった。竹中(郁)さんもズケズケいえる人だったが、詩人は、本音をいうなぁ、というのが爾来、私の持つ印象だったが、その一番怖いのは伊東静雄だった。『へっぽこでも、小説は五年十年書き続けていると、うまくなるものですね。しかし詩は、十年、十五年書きつづけても、ダメなものはダメですね』と、人の眼をのぞきこむようにしていわれると、ギクリとする。だから、ちょっとでもほめられると、嬉しくなる。私が散文詩風の『ミラボー橋』(1952)を送ったとき、もう入院しておられたが、見舞に行った友人にきくと大変いいといって下さったらしい。が、そのほめ方にドキッとした。二流の山のてっぺんにあがって、バンザイしていると。・・・」

また、こんな箇所もありました。

「伊東静雄には、詩集の出版記念会などでよく出会った。安西冬彦の『韃靼海峡と蝶』の記念会が、昭和22(1947)年10月、四天王寺で開かれたときだったと思うが、伊東静雄が、スピーチの冒頭で、『私は安西冬彦の詩が嫌いです』といったのに驚いたのをおぼえている。二人の世界は違うから、なるほどと思うものの、やっぱり凄いなあと思った。」

「白秋門下の詩人の詩集出版記念会で、伊東静雄に会ったとき、すれちがいざま。
『あんたの「よもぎ摘み」という詩は仲々よかったよ、いつもの賢ぶった詩よりは』と私の目を見て通りすぎていった。・・・『かしこぶった詩よりは』という言葉がグサッと胸に刺さった。知的を装ったウイットとか、哲学めいたものに得意になっていた私は、水を浴びたような気がしたのだった。私が見せびらかしているものではなくて、ひそかにかくしている恥かしいメソメソしたものや無知が、実は読者に評価されているのに気付かされたのだった。」



ところで、荒川洋治氏は1949年生まれ。詩集「心理」で萩原朔太郎賞受賞と略歴にあります。「人が集まると、何人かは文学談義をしたものだが、いまは見かけない。」という荒川さん。その「いまは見かけない」という貴重な場面を、私は、この夏読んだ、詩人伊東静雄の中に見ようとしたのかなあ。と思ったりするのでした。結局、荒川洋治氏の新聞の寄稿文は、最初だけで、読まずじまいでした。
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空をね。

2007-10-06 | Weblog
10月5日夜中の午前1時05分からNHKでETV特集「城山三郎」の再放送をしておりました。たまたま見たのですが、そこでは、記者会見で城山氏が、終戦の空の青さを語っておりました。私は眠かったので途中からつけたテレビを、早々に消して寝たのですが、その会見の場面が印象に残りました。

城山三郎・山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)があります。
城山氏は1927年生まれ。それが、1958年生まれの山氏の質問に答えている本です。父と子ほどに違う年齢差をまたぎながら、言葉の受け渡しが、しっかりとなされていきます。山氏にとっては、実の父親にも聞けなかったことを、まるで触覚で時代の輪郭をたどりなおすように城山氏の姿をさぐってゆきます。城山氏は胸襟をひらくとでもいうのでしょうか、それに誠実に答えていきます。
そのなかに終戦の青空のことがありました。

終戦の頃のことを城山氏は答えております。
「負けるということは、負けて生き残るわけだからね、そういうケースがあるとは夢にも思っていなかった。勝つか死ぬか。・・・」(p33)
終戦の日をどんな気持ちで迎えられたのでしょうと山氏が尋ねると、
それに答えて
「はっきり覚えていない。とにかく空が青い、空が高いなあって思ったことだけは覚えている。空をね、当時は空をゆっくり見上げるなんてことはしないから、空を見上げるのは敵機が来たときくらいで。・・とにかく、空が高いなあ、青いなあと思ったことだけ。昔、僕の実家で見たときも青空が高いと思ったけど、こんなに空が高いのかって、それくらい高かった。それまで戦争中はしみじみと空を見ることなんてなかったから。ゆっくり空を見上げている心の余裕もないしね。」(p36)


ここから、私に思い浮かんだのは、この夏読んだ伊東静雄でした。
その昭和20年の日記には、こうあります。

「数日前から心臓ひどく圧迫を感じて痛み、脈搏時々乱れるので、15日は休養してゐた。高岡の西のおばあさんが来て、今日正午天皇陛下御自らの放送があるといふニュースがあつたと云つた。門屋の廂のラヂオで拝聴する。ポツダム条約受諾のお言葉のように拝された。やうにといふのはラヂオ雑音多く、又お言葉が難解であつた。しかし『降伏』であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた。・・・国民誰もが先日の露国参戦に対する御激励の御言葉をいただくものと信じてゐたのであつた。先日の露国の国境侵入の報知をきいた時、国民は絶望を、歯をくひしばつた心持でふみこらへてゐたのであつた。・・・・・・
十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」


伊東静雄は1906年生まれ。
江藤淳は、1932年生まれ。
その江藤淳は、伊東静雄の詩集「反響」の中の、詩「夏の終り」について丁寧に解釈をしておりました。

「・・そして『気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく』というこの『空』、この空は、まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さをどこかに反映していないとも限らない。そしてこの非常にメローディアスな、まるで子守歌のような諧調を持った詩には、なにか個人ではたえきれないほどのいわば個人をこえたものの(それをかりに民族という言葉でよぶとすれば、そういうものの)かなしみが付け加わっている。
私はこの伊東静雄という優れた詩人の作品に、亡国の民の、敗亡のかなしみが、非常にはっきりと定着されていることに感動するのであります。敗北の意味を、どのように解釈することも自由であります。そこに、さまざまな史観によってどんな解釈がおこなわれたにしても、それは勝手であります。勝手でありますけれども、そのとき人々が、解放感とともに味った深いかなしみの実在はうごかせません。ふつうの人間は、その哀しみの存在に必ずしも気がつかなかった。二十年たった今でもあまり気がついていない、とすら言える。しかし、われわれのなかのある敏感な魂、悲劇的な生の相を、深く見つめながら、十数年間の詩業をいとなんできた敏感なひとりの詩人の魂には、このかなしみは明晰にとらえられていて、このやうにやさしい訣別の歌になったのではないか、と私は考えるのであります。」(「伊東静雄の詩業について」)

こうして解釈を示したからには、伊東静雄の詩「夏の終り」も引用しましょう。

  
   夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
   気のとほくなるほど澄みに澄んだ
   かぐはしい大気の空をながれてゆく
   太陽の燃えかがやく野の景観に
   それがおほきく落す静かな翳は
   ・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
   ・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
   いちいちそう頷く眼差のやうに
   一筋ひかる街道をよこぎり
   あざやか暗緑の水田の面を移り
   ちひさく動く行人をおひ越して
   しづかにしづかに村落の屋根屋根や
   樹上にかげり
   ・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
   ・・・・・さよなら・・・・さやうなら・・・
   ずつとこの会釈をつづけながら
   やがて優しくわが視野から遠ざかる




空ということで、城山三郎・伊東静雄ときました。
詩「夏の終り」には、一行目に「白い雲」とあります。
そういえば、司馬遼太郎は「坂の上の雲 一」のあとがきに、書いておりました。

「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。・・楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」

1923年生まれの司馬遼太郎は、ちょうど終戦を本土でむかえました。江藤氏は「まあ当時ものごころついていた者ならばだれでも憶えている、あの八月十五日の空の青さを」と書いておりました。それならば、その時、司馬さんは、どのように空をあおいだのだろう。と私は思ってみるのでした。空をね。  

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鈍感力。

2007-10-05 | Weblog
渡辺淳一著「鈍感力」(集英社)を読みました。

渡辺氏といえば、1933年生まれの作家なのですが、札幌医科大学卒業。医学博士という経歴の持ち主。この本では、ご自身のお医者経験に触れている具体例が鮮やかな印象として残ります。たとえばですネ、いまの時代はというと、国会の野党よろしく相手の欠点を指摘することに、慣れっこなっていますね(私もそうなので)。すると、どうしてもその小言を受けて立つ側には成り難い。その成り難い肝心なところを「鈍感力」として、生活の智恵ふうに要所要所を提示してくれているのが、この本の読みどころ。

まずは、医局員S先生が登場します。その上に、新進気鋭の優秀な主任教授がおられた。その優秀主任教授の欠点(?)はというと、手術中にいろいろ部下の医局員に小言(こごと)を癖のようにいい続ける。渡辺氏はその主任教授の手術の助手が回ってくるたび、叱られる事を考えてうんざりする。その渡辺氏の三期上のS先生はどうだったのか。ここはちゃんと引用しておきましょう。

「わたしはこの先生が教授に叱られる度に、なんと可哀想な先生かと、密かに同情していたのです・・・叱られる度に独特の返事をする・・『はいはい』『はいはい』と、軽く『はい』を二度くり返すのです。・・とにかく、どんな小言をいわれても、このS先生は待っていたように『はいはい』と答える。その律義な返事に、教授のほうも安心して、『ぶつぶつ』いっているのではないか。・・・一種のリズムを持って、あのお餅つきと相どりのように、よく合っているのに気がついたのです。」
「さらに、この先生の素晴らしいところは、手術中、あれだけ叱られたのに、手術が終わるとケロリと忘れて気持ちよさそうに風呂に入っているのです。さらにそのあと医局へ戻るや、みなとビールやお酒を飲みながら、いま終った手術のことや、その他いろいろなことを仲間と楽しそうに、ときには笑いながら話し合っているのです。あの少し前、あれだけ叱られたことはどこに置き忘れてきたのか、と呆れるほど、見事に忘れ去っているのです。」

この後には、少し叱られただけで、ショックを受けるという医局員の例を列挙しているのですが、これはまあ、引用するまでもないでしょう。
むろん渡辺氏は、その鈍感力の持ち主の、それからをきちんと書いております。

「いつも『はいはい』と答えながら助手を務めているうちに、教授の手術を身近に見て要点を覚え、のちに医局で一番、手術がうまくなられたのです。・・・」


最近、夜間救急医療で病院側の妊婦受け入れ拒否が問題になったことがありました。
そこでは、新聞などで夜勤急患をこなしながら明けから、そのまま朝の仕事がまっている医者の状況が紹介されておりました。この紹介本に、大学病院で夜起きているという箇所があります(現在の問題と状況やケースが異なり安易な比較は禁物ですが)。ここでは、「鈍感力」として肝心な箇所と思えるので、最後にこれも引用しておきます。

「大学病院にいた頃、わたしは外来や入院患者を診ながら、夜はさまざまな動物実験をしていました。そのなかに、犬に二時間おきに注射するという仕事がありました。昼はもちろん、夜中もですが、この夜の注射はこたえました。正確に二時間毎にするためには、ほとんど徹夜で起きていなければなりませんが、それでは疲れて昼の仕事ができません。といって寝てしまうと寝過ごすかもしれない。」

ここで、渡辺氏は、二時間毎に起きるいろいろな工夫を紹介しております。
「最後に考えついたのが、『二時間後に起きるんだぞ』と、自分に何度もいいきかすことです。結果として、これが一番有効で、次第に守れるようになりました。おかげで、わたしはいまでも、大体、決めた時間に起きることができます。・・寝つきがよくて寝起きがいいのは、外科医の鉄則です。・・・」


こうして外科医の鉄則まで紹介しながら、渡辺淳一氏が思い描く「鈍感力」の正体を、若い人へと語ってゆくのでした。

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所信表明演説。

2007-10-04 | Weblog
10月2日の読売・産経新聞を見ると、福田首相の所信表明演説全文が掲載されておりました。そこにテロ特措法はどのように取り上げられていたか。後学のためにその箇所を引用しておきます。

「日米同盟の堅持と国際協調は、わが国外交の基本です。
世界の平和は、国際社会が連帯して取り組まなければ実現できないものです。
私は、激動する国際情勢の中で、今後の世界の行く末を見据え、わが国が国際社会の中でその国力にふさわしい責任を自覚し、国際的に信頼される国家となることを目指し、世界平和に貢献する外交を展開します。直面する喫緊の課題は、会場自衛隊のインド洋における支援活動の継続と、北朝鮮問題の早急な解決です。
テロ特措法に基づく支援活動は、テロリストの拡散を防ぐための国際社会の一致した行動であり、海上輸送に資源の多くを依存するわが国の国益に資するもので、日本が国際社会において果たすべき責任でもあります。国連をはじめ国際社会から高く評価され、具体的な継続の要望も各国から頂いています。引き続きこうした活動を継続することの必要性を、国民や国会によく説明し、ご理解を頂くよう、全力を尽くします。・・・・・・」

以上は所信表明演説の最後のむすびの前に「平和を生み出す外交」として語られておりました。
そして10月4日の産経新聞「主張」は、代表質問について書いておりました。
そこに述べられている気になる箇所

「・・インド洋での海上自衛隊による補給活動延長などの重要課題に直面していることを忘れてはならない。国会運営に大きな責任を負った民主党は、建設的な議論に努める態度が必要だ。首相は補給活動の意義をもっと率直に語ってほしい。
民主党の鳩山由紀夫幹事長は、補給活動の延長に反対する・・・」

とあり、二面の記事には民主党の小沢一郎代表の態度を書いております。

「・・特に、今国会の焦点であるインド洋における海上自衛隊の補給活動継続に反対の姿勢をかたくなに堅持している。小沢氏は2日の記者会見でも、テロ新法案の事前協議についても『(明示的な国連決議がないのだから)憲法上、(海自の補給活動は)許されないという考え方だ』と一蹴(いっしゅう)した。・・・」

現行のテロ対策特別措置法が失効するのは、11月1日であります。
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その自由さが。

2007-10-03 | Weblog
川上弘美の初めての書評集「大好きな本」(朝日新聞社)が出ています。
その都度、新聞書評欄で何げなく読み、私は鮮やかな印象が残ります。
たとえば、谷内六郎著「北風とぬりえ」を川上さんが書評した文など極上の文だと思っており、何で書評集をださないのだろうと思っておりました。それらを含む144冊の書評が一冊になっており、何でも10年近くに及ぶ書評の集まりだとか。
いまだ読んではいないのですが、いいでしょう。気楽な気持ちで、ブログに書きこみます。
2007年9月20日朝日新聞文化欄に、この新刊への中村真理子氏のインタビュー紹介記事が掲載されており、楽しめました。忘れがたい記事です。そこには写真もあります。白い丸首の綿シャツらしきものを着て(そう胸元まで伸びる黒髪がシャツの上で無造作に絡んでおります)、黒い傘をさしてカメラ目線で笑っております(ほほ笑むとするには、歯を出しておられる。その感じは、不思議のアリスにでてくる笑っている猫の絵みたいです)。

まずは、そこにある気になる言葉から引用しましょう。

「読書から、閉塞感のある現実を生き抜く力を与えられる。
『生きていると、嫌なことやしょんぼりすることも多いけれど、本を読めば全く違う世界に行くことができる。そして、誰に遠慮することもなく、好きなときに自分の思うように読んでいい。その自由さがいいのでしょうね』」

この言葉を読んだ時に、これはたとえば、ブログを書く時の感じに似ているなあ、と思ったりするのです。自由に書きこむ。自由に読む。それでも、自由に本に対峙しているばかりだと、現実に降りてこれなくなったピーターパンにでもなった悲哀をもまた感じるというわけです。

私は、何をいいたいのやら。

インタビューは自然体で楽しくできたのでしょうね。その雰囲気が伝わってきます。もっと引用しましょう。

「書評は発見の連続だという。
『普段、本を読んでいるときは、いろいろ雑多なことを考えているけれど、書くまでは言葉にできていなかった気がする。書くことによって、読んでいたときよりもっと奥までいけたかもしれないと思うことが何回かあって。それがすごくうれしかった』」

きっと、川上弘美さんの書評は、この嬉しさが読む者に伝染するのでしょうね。
どのように書評を書くかも答えております。

「書評するしないにかかわらず、最初は漫然と読むそうだ。
『3、4日たって思い出したり、浮き上がったりしてきたものを、どうにかつかみたい』。同じ著者の別の本を手に取ることも心がける。・・・」

せっかくですから、もう少し

「子供の頃から本が好き。本屋があれば入ってしまう。でも意外なことに学生時代の読書感想文は『一回もほめられたことがない。すごく苦手で嫌い』だったそうだ。『今でも書評は難しい。言葉が出てこない苦しさはあっても、本が好きで、何か書きたい、と思った瞬間はうれしい』」

いまだ川上弘美著「大好きな本」は読んでいないのですが、「うれしい瞬間」に立ち会う予感がつまているような期待感を抱くたのしみ。



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沖縄戦・渡嘉敷島。

2007-10-02 | Weblog
曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」ーー日本軍の住民自決命令はなかった!」(ワックBUNKO)の書評をしようと思ったわけです。

私はこの曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」を名著だと思っております。1973年に単行本として出たのですが、ワック社から2006年に新版で再々登場した本です。内容はというと、

昭和25年に出た沖縄タイムス社の『沖縄戦記・鉄の暴風』という著書に焦点を定め。その本のなかで「悲憤・慟哭・痛嘆」している少尉が、じつは昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切のインタビューも受けたことがないことを突き止めます。資料が目撃者でなく他の人からの伝聞から書かれていることを明るみにする。さらに虚構の小説として創作している箇所を「・・場面は実に文学的によく書けた情景といわねばならない。・・しかしそのようなことが許され得るのは、虚構の世界に於いてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、誰にも許されていない・・」と現地にいって確認しながら曽野さんは書いております。

この曽野さんの本は、虚構という小説の狭い枠におさまりきれない、文学の偉大さを味わう一冊なのです。渡嘉敷島での聞書きの混乱のなかでさえ、たしかな推理の足どりをゆるめず。そこから、歴史の骨格へと降りてゆく名著なのです。

ちょうどいま、沖縄戦の集団自決についての教科書問題で、朝日新聞など一面(10月2日)あつかいで騒いでおります。もし沖縄の方が「鉄の爆風」を読んで、曽野綾子さんの本を読めないとしたら、この情報隠しは、卑劣です。どなたにも一読をお勧めしたい本なのです。(ちなみに、何かの手違いなのでしょうbk1では注文できない。セブンアンドワイやアマゾンなら注文できます)。


余談になりますが、産経新聞2006年8月27日にこんな箇所がありました。

照屋昇雄(82)さんが「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」と答えています。

新聞には

「照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして『準軍属』扱いとする案が浮上。村長らが・・赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、『命令を出したことにしてほしい』と依頼、同意を得たという。」


「照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省は32年5月、集団自決した島民を『戦闘参加者』として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。」


照屋さんへのインタビューの最後の質問は
「あらためて、なぜ、今証言するのか」とありました。
答えて

「赤松隊長が余命3ヵ月となったとき、玉井村長に『私は3ヵ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」とあります。


援護法を受ける資格調査についても具体的です。
渡嘉敷島での聞き取り調査を一週間で100人以上から聞いたそうで、

「その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか」という質問には「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」と答えております。

そして

「民間人から召集して作られた防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、一人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣りの島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」


「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた・・・」

曽野さんは渡嘉敷島に行って検証しているのですが、
それでは「沖縄ノート」の大江健三郎氏はどうだったのか。

以前に、4月分の朝日の古新聞をもらってきたことがありました。
そこに、大江健三郎の「定義集」という連載。
たまたま読んだのですが、こう始まります。

「私は二年前から、裁判の被告です。・・
訴えられているのは、私が37年前に出した『沖縄ノート』(岩波新書)で渡嘉敷島の住民に日本軍が強いた『集団自決』について論評している部分です。・・」

その次にこんな文が続くのでした。


「私(大江健三郎)は1965年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄戦から五年かけての徹底的なインタビューについて聞きました。氏が執筆者のひとりである『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同世代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。私は渡嘉敷島を訪れていません。それはあの沖縄戦で、時には自分の手を血で汚しさえして、苦しみつつ生き延びた島の人たちに、直接聞きただす勇気がなかったからです。・・」


ここは、裁判の被告として、直接に、大江さんは渡嘉敷島を訪れていなかったという御自身の立場を語っている。



集団自決の歴史はあらためて検証していくべき課題を担っております。
いままでのまま中学教科書に
「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)とする断定記述で、そのままに、日本の中学生に刷り込んでよいはずがないのです。

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分岐点である。

2007-10-01 | Weblog
「諸君!」2007年11月号が出ました。さっそく巻頭コラム「紳士と淑女」。ここでは「彼(小沢)の手にしたテロ特措法延長反対という刃(やいば)は血に飢えている。」という明快な視点で問題のありかを語っておりました。
はじまりはこうです。

「かくして政治的殺人は行われた――白昼、公衆の面前で。小沢一郎が握った『参議院』という刃物が、これほど深く急所に刺さるとは知らなかった。手練の早業。魔剣の切れ味。安倍晋三は職を投げ出し、蹌踉(そうろう)として病院に逃れた。殺し屋は、それでもなお満足しない。『所信表明しておいて、代表質問を聞かせぬとは無責任』と、背後から罵声を浴びせた。国民の七〇パーセント超も安倍を嗤った。
小沢の二度の全国行脚が効いて、彼の民主党は今後六年間、参議院を握って不動の構えである。・・・・
せっぱ詰まった安倍は、小沢との党首会談に縋(すが)った。誠心誠意で説けばインド洋上の給油問題は打開できると思ったところが若気の至りである。民主党からは『二人だけの会談は談合の謗(そし)りを免れない』『話し合うことがあれば国会の党首討論でやればいい』とニベもない返事。安倍は万策尽きた。ところが安倍が辞めた後で、小沢は『党首会談の提案など受けていませんよ』と言った。総理大臣の懇願が小沢様の天聴に達しなかったのか。申し込まれたから断り、安倍は絶望したんじゃないか。プロの殺し屋は、刺した後に血に濡れた手を洗うのも素早いが、あまり白々しいことを言わないでくれ。犬をドブに蹴り込んで叩いたのなら、せめて『叩いた』と認めてはどうか。新聞社の選んだ大学教授が三人も四人も、紙面を占領して政局を論じている。・・・・・・
テロ特措法問題は、日本外交を『反米』に転じるかどうかの分岐点である。
小沢は、党の方針だから譲れないと言う。世論も小沢を支持しているらしい。
もちろん『朝日』は常に反米の旗振りである。・・・          」


こうして明快に語られると嬉しいのですが、これが少数意見だとするならば、悲しくなってくるではありませんか。せめて「世論も小沢を支持しているらしい」が勘違いであれ。
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