不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

方丈記の講師。

2014-11-19 | 古典
今日の産経新聞の産経歌壇。
伊藤一彦選が楽しめます。
いろいろと味わえるのですが、
その9首目に、

青春は齢にあらざり
 方丈記の講師となりて活力の湧く
   成田市 神郡一成

とありました。
「方丈記」とあり気になります。
しかも、「方丈記の講師」とある。
どんな、お話が聞けるのだろうと、
そんな興味が湧きます。

ちょうど、昨日本棚から「方丈記」を
とりだして、めくっていたので、
それもあって、この一首に惹かれました。

ここはひとつ
方丈記の講師のお話は聞けなくとも。

私なりに、浮かぶあれこれ。
ちょうど、思い浮かぶ3冊があります。

石井光太著「遺体」。
桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」。
そして、「方丈記」。



まず、石井光太著「遺体」(新潮文庫)は
東日本大震災直後の釜石市のことでした。

各章の題名が
1、廃校を安置所に
2、遺体捜索を命じられて
3、歯型という生きた証
4、土葬か、火葬か

となっており、当時読んで、
今も感銘深い一冊。


桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」(平凡社新書)
を昨日読んで、こんな箇所があったのでした。

「・・南北朝期に時衆の多くの徒が、
合戦に従軍して、死者に十念を与えて
弔っており、形見の品を遺族に届けたり、
最期の模様を語るなどしている事実を指摘する。
いわゆる時衆の『陣僧(じんそう)』である。
戦場に赴き死者を弔い、場合によっては、
が行う仕事で卑賤視されていた
死者の遺体処理までも担当する時衆の
『陣僧』の仕事は、他の宗派には
見られない独自の行動であった。」
(p70~71)


最後に方丈記から引用。
ここには、山正和氏の現代語訳。
山崎正和「徒然草 方丈記」(学研M文庫)。



「養和年間(1181~82)のことであったとか、
時がたってよくは覚えていないが、二年もの
あいだ世間が飢えに苦しんで、言語に絶する
事態となったことがあった。・・・・
仁和寺の隆暁法印という高僧があったが、
この人は、こうして数知れず人が死んで
行くことを悲しんで、死体の顔を見るごとに、
その額に尊い『阿(あ)』の字を書いて
やって、成仏の縁結びを施しておやりになった。
人数を知ろうとして、四月、五月のふた月に
わたって数えて見ると、一条から南、
九条から北、京極大路から西、朱雀大路から
東の一帯で、路傍の死体は、あわせて
四万二千三百余りの多きにのぼった。
いわんや、その前や後に死んだ者も多く、
賀茂河原や白河、西の京など周辺の地を
加えて数えれば、限りもないことであろうし、
ましてさらに諸国津々浦々に及べば、
見当もつかにことである。・・・
今回のありさまは目のあたりに見ただけに、
稀有の思いをする体験であった。」
(p195~196)


もとにもどって、はたして、
「方丈記の講師」のお話は、
どのような展開に及ぶのだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする