和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ロイヤル・タイラーさん。

2014-11-15 | 他生の縁
ドナルド・キーン著「わたしの日本語修行」(白水社)。
そこに、「教え子の思い出を聞かせてください。」
という質問に、キーン氏が答えており印象に残ります。

「一番に思い出されるのは、
ロイヤル・タイラーさんのことです。・・
タイラーさんは、わたしが56年間コロンビア大学
で教えた中でも最も優れた学生ですが、別の意味で
も忘れがたい印象を残しています。ある日突然、
彼はあらゆる過去のこと、自分の祖先や家族が
嫌になったのです。彼はニューヨークを離れ、
ニューメキシコの50人ほどしか人の住んでいない
砂漠の村で生活を始めました。使われなくなった
古い列車の車両の中で、奥さんと二人で暮らし
始めたのです。25歳ぐらいだったでしょうか。
彼はわたしにすさまじい手紙を寄こしました。
『お前は学問をすばらしいものだと思っている
ようだが、我々はそうは思わない』というような
調子です。びっくりしたでしょう。本当のことです。
そして彼はどこかの工場で働いたり、ガソリンスタンド
で働いたりして、『これが本当の生活だ』などと
言い出しました。自分の祖先や学問の伝統を否定した
のです。わたしは何度も彼に手紙を書きました。
どんなにひどい手紙が来ても、わたしは彼に
『帰ってきてください、帰ってきてください』と
言い続けました。タイラーさんは、まだ博士論文を
書いていませんでしたが、その資格は十分にあり
ました。そして、やっとのことで、彼は少しずつ
心を開くようになったのです。わたしはかろうじて
彼を説得し、あの『謡曲二十選』の共著者として、
ニューヨークに戻ってもらいました。彼は『松風』
とか『江口』といった幽玄の能を読んで感動しました。
そうして、だんだんわたしの世界に再び近づいて
きてくれたのです。今、彼はわたしの教え子の中で
最もたくさん手紙をくれます。」(p299~230)
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謡曲のもれてくる時。

2014-11-14 | 前書・後書。
小西甚一著「古文の読解」(ちくま学芸文庫)。
この解説は武藤康史。
そこに、「小西甚一は大学受験ラジオ講座の
講師でもあった」という箇所があります。
そこを引用。

「『旺文社大学受験ラジオ講座テキスト』を
めくってみたところ、初登場は昭和29年9月。
・・・この昭和29年9月号の巻末には
『新講師の横顔』が載っていた。
『古文 小西甚一先生』の項は、

 教育大学の三階、国文学研究室の一隅から
 時々朗々たる謡曲のもれてくる時がある。
 その声の主こそ多趣味をもって知られる
 小西先生の謡の稽古の一時なのである。

・・と書き出されていた。
このとき小西甚一、39歳。

その他俳句は加藤楸邨氏主催の『寒雷』の
同人であり、能は観世寿夫氏の門下、狂言は
和泉流の野村万之丞氏に就き、
その他趣味は数えればきりがない程、・・」
(p532)

う~ん。
『朗々たる謡曲のもれてくる時』
っていいだろうなあ。
なんて、思う年頃となりました(笑)。

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そりゃそうよ。

2014-11-13 | 本棚並べ
てんこもりの対談集なので、
再読したくなったのが
金美齢・長谷川三千子「この世の欺瞞」(PHP)。

最後の方に、金さんが言っております。

「あなたが『対談本はイヤだと思っていたけれど、
相手が金さんなら断りようがない』って言ったって、
この本の担当編集者から聞きましたよ(笑)」(p191)

うん。おかげで、この対談集を読めるよころび。

子育ての箇所も気になります。

長谷川】 私もよ~く覚えている。
二歳の子供を連れて歩くのは、8階まで
階段を上るより、はるかに疲れるのよね。

金】そりゃそうよ。

長谷川】子供の脚に合わせて歩くのって、
本当に重労働。おまけにやたらに立ち止まって
『あ!』とか言って、何かを拾うわけよね(笑)。
『それは〈ばっちい〉から、やめようね』と
注意して、何とかあきらめさせる。それで、
大人の脚だったら十分で行けるところが、
三十分はかかってしまう。

金】その通りよ。

長谷川】要するに、子供を育てるということは、
そういう非能率の二十四時間を過ごすってこと。

金】忍耐、忍耐。
長谷川】私の乏しい忍耐力が、子育てで、
かなり鍛えられました(笑)。

金】子育てって、『この世の中には、自分の
思う通りにならないことがたくさんある』という
ことを学ぶいい機会なのよ。


これがp136にあり。
p118には、ボーヴォワールについて
金さんが
『でもね、講演録を読んだときにハッと
気がついたの。』という箇所がいいんだな(笑)。
また、機会があれば再読しよっと。
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欺瞞(ぎまん)。

2014-11-12 | 短文紹介
今日は、高速バスに乗車しての行き帰りで、
こういう場合は、私は対談集に限ります(笑)。

金美齢・長谷川三千子「この世の欺瞞」(PHP)
副題が「『心意気』を忘れた日本人」。

一箇所引用


長谷川】  ・・「朝日新聞」のことはさておき、
金さんがおっしゃるように、安倍さんが苦しい
ときこそ、むしろ一緒になって応援するべきなのに、
いわゆる保守派の知識人と言えるような人たちが、
『安倍は本当の保守ではない』
『新自由主義に引っ張られている』
『やっぱりポチ政権になっている』
などと、まあ、好き勝手に放言するわけですよ。
そういう人たちを見ていると、何て言うかしら、
誰かを批判する言葉じゃないとしゃべれない
みたいな感じがするんです。
批判をするのが好きというよりも、
それしか言葉を持っていない。
何かを叩いていないと、自分の存在意義が
確認できないという人が多いんじゃないかしら。
(p99)


うん。乗り物の中では、
できるだけ本は読まないで、
目の疲れには注意しようと思うのですが、
バスのなかでも、
対談だと、ついつい活字を追ってしまいます。
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信号旗のように。

2014-11-11 | 詩歌
本棚から竹中郁少年詩集
「子ども闘牛士」(理論社・1999年)をとりだしたので、
あらためて、読み返してみる。

どんな詩集かって、聞かれたら、
たとえば、「地上の星」と題する詩が
載っていたりするよ。とでも答えましょう。

その「地上の星」の最初の2行は

「 こちらで振る
  踏切番(ふみきりばん)の白いランプ 」


巻末に「竹中先生について」と題して
足立巻一氏が書いておりました。
そこから、
この詩集の絵について触れた箇所を引用。

「絵はすべて竹中先生が描いたものです。・・
先生は絵がお得意で、ハガキにはかならず絵を
描いて出されましたが、ことにお孫さんには
そんな絵はがきをたくさん送っていられました。
大部分はその絵はがきを借りたのです。」(p158)

せっかくですから
この詩集に載せられた
お孫さんへの絵はがき。

「 おはがき有がとう
『すごくきれいでしたね』というのはおかしい
『すごい』ということばを字典で引いてごらん
『大へんきれいでしたね』とか『ひじょうにきれい
でしたとかいう方が正しくてよろしい
  ×
こんどのときは何を御馳走(ごちそう)しましょうか」
(p131)

この絵はがきには「つなわたり」の絵が
ササッと引かれて描かれておりました。



最後に、「若い水夫」と題した詩の
はじまりの3行。

「 友よ 帆綱(ほづな)をたぐれ
  その白い翼のような帆を張ってみせてくれ
  ぼくのこころは信号旗のようにさっとあがろう」


うん。これだけで、詩集を紹介したことに
ならないだろうけれど、こういう詩集もあります。
ということは、知っておいてほしい(笑)。
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謡曲が入っていない。

2014-11-10 | 本棚並べ
ドナルド・キーン対談集「日本の魅力」(中央公論社)
そのなかに、三島由紀夫、小西甚一、ドナルド・キーン
という顔ぶれの鼎談「世阿弥の築いた世界」が掲載
されておりました。
そこから一箇所引用。

キーン】 日本語に歌という言葉もあるし、
詩というのもあるし、新体詩もありますけれども、
しかし、ポエトリーに全部を含めることはできない
でしょう。けれども、能はたしかにポエトリーに
違いないと思います。日本の歌論を見ても、
能のことは全然ありませんでしょう。しかし、
私にいわせると、能は日本人によって書かれた
ポエトリーの中で、いちばんすぐれていると思います。
もちろん、私は歌も好きですけれども、非常に
制限を感じるんです。やっぱりやまと言葉だけ
でそれを越えることはできなかったんです。
三十一文字の短歌で、あまり知的なことも
書けなかったでしょう。しかし、能となりますと、
はじめて日本に・・別の意味ではじめて日本で、
ほかの国にあるようなポエトリーができたんです。

三島】 なるほど。哲学詩でもあり、恋愛詩でもあり、
あらゆるものが入りますね。武勲詩でもあり。

キーン】 叙事詩でもあり。    (p189)


話題をすこしズラしてみます。
ドナルド・キーンさんのアメリカでの
先生は角田柳作先生でした。
その先生がどのように謡曲を見ていたのか?
というのは、気になるところですが、
ついては、

1877年(明治10年)群馬県勢多郡久田村に
角田柳作氏は生まれておりました。
1877年(明治10年)長野県東筑摩郡和田村町区に
窪田空穂が生まれております。

同年代の窪田空穂氏が謡曲について
どのようなイメージをもっていたのか。
それは、それ以後の日本人とは
どのように違ってきたのか。
ちょっと興味あるテーマです。

ということで、
窪田空穂全集の月報にある
インタビューでの言葉を引用することに。

窪田空穂全集第11巻の月報2の
「空穂談話Ⅱ」に

・ ・・きみのいまいった『抒情詩』、
これが『国民之友』から出てきた。
『国民之友』というのは、イギリスの
紳士道を日本へとり入れようということを
理想にしたような雑誌で、徳富蘇峰さんの
意見が中心になったもの。だから、イギリス
の詩を慕って、相当、文学の教養のあった人だ、
蘇峰という人は。それで、売れもしないような、
そういう本をこしらえた。だれが大将っていう
ことがなく、読んでみて一番うまかったのは
柳田国男さん。不思議なものだ、島崎藤村の
詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が
柳田さんの詩にじつに酷似している。
あの人はそいう人だ。とり入れることが
じつに上手だ。それが詩の方面の話・・・
当時は、外国文学がじつにさかんで、
文学でいえばヨーロッパの文学、ことに
イギリス文学が重んじられて、日本の文学を
じつに軽く扱っていた時代だ。第一に、
日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。
平家物語などはなにか文学でないように
見られていた、そういった時代。



う~ん。さて平家物語あたりは
現在の中学国語の教科書に出て来るようです。
それはそうと、
窪田空穂氏の言葉は、同時代の
角田柳作先生も、共有していたのじゃないか、
と思うわけです。
その角田先生に教わった学生は
どんな学生だったのか。
たとえば、ドナルド・キーン著
「日本文学の歴史1」のまえがき。
そのはじめの方にこうあります。

「外国人による日本文学史にも長所は
あるのではないかと思う。外国人が
日本文学を自由に読めるようになるまで
には大変な時間がかかるので、日本人以上
に日本文学に対して情熱がなければならない。
・・・日本文学を勉強する外国人は、
何も義務感を負っているわけではないので、
好きで堪らないのでなければ、すぐに
日本文学を捨ててもっと楽な勉強に
切り換える筈である。私は日本文学が
好きで堪らない一人である。」


ここで、さっきの対談集「日本の魅力」の
鼎談でのはじめの方に、
今度は先生となったドナルド・キーン氏と
学生とのやりとりが語られた箇所があるのでした。


キーン】・・・・・
世阿弥の場合は、もちろん仏教などの面では、
私たちの信じているようなこととずいぶん違う
と思いますけれども、その中に何か絶対的な
ことがあるんです。時代を越えるすばらしさ
があるんです。・・・・
現在私はコロンビア大学で『日本の戯曲』という
課目を教えております。毎年同じような経験が
あるんですが、秋の学期は能をやって、
春の学期は浄瑠璃をするんですが、
学生たちはみんな能に非常に惹かれて、
能、とくに世阿弥あたりの能を読んでからは、
どんなすばらしい浄瑠璃を読んでも、
幻滅を感ずるというんです。このことからも、
どんなに世阿弥が高く評価されているか
おわかりでしょう。世阿弥の戯曲は、
全世界の戯曲の中でもいちばんすぐれたもの
の一つと言えると思います。とにかく
ギリシャの悲劇と匹敵できるような
存在だと私は思います。(p178)


ドナルド・キーン。
角田柳作。
窪田空穂。
コロンビア大学の学生。

ときました。ところで、現在、
日本の学生を教える先生は
ということで、
最後は、
竹山郁の詩「遠足」の
最初と最後とを引用

   遠足
  ――杉山静太先生に


 先生 杉山先生
 山はまだですか
 ぼく こんなにたくさん摘みました
 先生 あれ 鶯でしょう

   ・・・・・
   ・・・・・

 世の中へ 山のあっちのまだあっちの・・
 そのステッキを高くあげて
 先生 杉山先生
 空の遠くを指してください
 ぼくはそこまで歩くでしょう
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雑誌で警告していた。

2014-11-09 | 地震
2011年の「新潮45」5月号。
そこに、「ビートたけしの達人対談」が載っていて、
対談相手は鎌田浩毅氏。
そのはじまりで、こう対談相手を紹介しておりました。

たけし】 ・・・先生は火山の専門家ですが、
地球科学に詳しいので、今日はまず地震のこと
から聞かせてください。今回の東日本大震災が
来る前から、政府の地震調査委員会の報告では、
宮城県沖地震、三陸沖北部地震、茨城県沖地震が
今後三十年以内に起こる確率は90パーセントを
超えていたそうで、先生もそのことを昨年末、
雑誌で警告していた。特に宮城県沖地震は
99パーセントだった。そのことに驚きましたね。(p123)

さて、
何で、この箇所を引用したのでしょう(笑)。


2014年「新潮45」11月号は
今発売中なのですが、そのp18~25に
「御嶽山噴火 千年ぶりの『大地動乱期』に
入った日本列島」と題して、
鎌田浩毅氏が書いております。

うん。どんな内容かって、
それは、読んだ方しだい(笑)。
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杖にすがりて。

2014-11-08 | 詩歌
三上慶子著「私の能楽自習帖」(河出書房新社)。
そこに、こんな箇所がありました。

「世界の舞台芸術の中で、能には注目すべき
特色がある。それは老女物という美のジャンルを
作り上げたことである。・・・」(p214)

ちょうど、『鸚鵡小町』を読んでいると、
なるほどと感心してしまいます。

 ワキ
   ・・・・小野の小町、彼はならびなき
   歌の上手にて候が、今は百年(ももとせ)
   の姥となりて、関寺辺に在る由聞し
   召し及ばれ、・・・・


 サシ
  むかしは芙蓉の花たりし身なれど、
  今はレイデウ(あかざ)の草となる。
  顔ばせは憔悴と衰へ、膚は凍梨の梨の如し。
  杖つくならでは力もなし。・・・・

  注:藜デウ=アカザ。草の名。その茎で作った
       杖は軽く、老人用とされ、わが国
       では中気よけという迷信がある。


曲の中心には「この返歌を只一字にて申そう。」で、
まあ、その紹介は、はぶくとして(笑)。

そして、最後はというと

 シテ
  小町も今は是までなりと、
 地謡
  杖にすがりてよろよろと、
  立ち別れ行く袖の涙、
  立ち別れ行く袖の涙も関寺の、
  柴の庵に帰りけり。

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謡曲と神曲。

2014-11-07 | 本棚並べ
平川祐弘著「謡曲の詩と西洋の詩」(朝日選書)
をパラリとひらく。そこにこんな箇所。


「・・・ダンテの『神曲』の翻訳をした際、
地獄篇、煉獄篇と訳を進めてゆくうちに
私がかすかに感じはじめたことがあった。
それは『神曲』の一曲一曲の構造が
謡曲の構造と似通っている、という点であった。
いま両者の共通点をまず登場人物という点から
整理しよう。謡曲ではワキとして坊様や旅人が
あらわれ、亡霊であるところのシテに会う。
謡曲の世界では、道行で歌われるように、
ワキの僧やワキヅレは現世で旅をして、
途中で夢を見たのか作中の主人公である
あの世のシテの亡霊と出会うのである。
いまそのシチュエーションを『神曲』の
上へ引きうつしてみる。『神曲』では
作中人物としてのダンテがワキにあたり、
ワキヅレにあたるウェルギリウスとともに
あの世で道行というか旅をする。(この彼岸の旅は
ダンテの夢visionと考えてもよい。)
そしてあの世で出会う人は、地獄であれ煉獄であれ、
死者の霊である。その死者の亡霊は・・・・
ある者はたけだけしく進み出て名を名乗り、
ダンテに向って心中に積り積った思いのたけを
述べ、怨念を洩す。その語りの内容は、
あるいは生前の身の上や末期の苦しみであり、
あるいは死後の自分の境涯などである。・・」
(p22~23)


うん。この本をきちんと読まなきゃ(笑)。
そして、平川祐弘訳『神曲』へ
すんなりと、つながりますように。
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「小見出し」は。

2014-11-06 | 本棚並べ
鷲尾賢也著
「編集とはどのような仕事なのか」に


「ベストセラーの唯一共通している特色は、
誌面に白地が多いことだなどと、あたかも
大発見のように語った評論家がいた。
もちろんたいした発見ではないが、
活字がぎっしり詰っていると、読もうという
意欲をどうしても失わせてしまう。
それは事実である。
漢字とひらがなの比率、あるいは適度の改行が、
整理する場合の大事なポイントになるのは
そのためである。」

うん。『それは事実である』。
というと、すぐに頷く(笑)。

さてっと、そのあとを読んでゆくと、
こんな箇所があったのでした。

「ふつう、章、節によって目次ができあがっている
・ ・・・・節までは著者の構成に含まれる。ところが
小見出しは、著者が考えるのではない。編集者が読者の
ために挿入するものなのである。なぜそのようなことを
するのだろうか。
ひとつには眼の休息をとり、読みやすい印象をつくる
ためである。・・・小見出しはそういった装飾的側面
だけではない。人間の思考能力は高いものがあるが、
じつは2、3ページ以上、誌面を眺めつづけていると、
誰しもが少し飽きてしまうところがある。」

「読み手、書き手の意向が合致して、書き手は思考が
転換するところ、読み手は少し眼が疲れ、読むのに
飽きる地点に区切りをいれる。これが小見出し
ということになる。眼を休ませると同時に、
いままでとちがうはなしが再びはじまりますよ、
という予告といってもよい。編集者が入れるのは、
読者のための配慮からスタートしているからであろう。」

「あくまで、小見出しは読者サイドに立った行為である。
そのような場合は著者の意向に沿いながら、かつ読者の
読みやすさを考え、少し強引に推し進めていってよい。
小見出しはある程度の長さのところで挿入せざるを
えない。だから文章の流れを強引に切断する。しかし、
それによって著者の意図とは異なった新たな意味あい
が生じることもある。コンテキストが変化するのである。
小見出しには編集者と著者の格闘のような側面がある
のはそのせいである。義務的、形式的につけている
のでは意味がない。小見出しにも創意工夫が試され
なければならない。次はどうなるかなと読者を
ひっぱってゆく機能を、小見出しは担っている。
だから前もっての要約であってはならない。どこか
気になり、何かがはじまりそうな気分を小見出しで
作りたい。小見出しを見ただけで、おもしろそうに
感じさせたい。そういう二重三重の意図で
小見出しはつけられるのである。
新書、選書などは小見出しを頻繁につける。
おそらく見開きにひとつぐらいを原則に
しているのではないか。・・・」


うん。小見出しは、
私のためにあったのだと思い当ります。
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飛び込んでくる。

2014-11-05 | 短文紹介
外山滋比古著「老いの整理学」(扶桑社新書)を購入。

パラリとめくれば、こんな箇所。

「年を取って、することがないから、
本を読もうというのもよろしくない。
することがなかったら、すること、
仕事をつくるのである。
本はいくら読んでも仕事ではない。
仕事がなくては人間らしくなれない。」


「うまく本を読むのは、仕事として読む
のではなく、スポーツ、遊びとして読む
のである。・・・
いい気持ちで、おもしろそうな本、
おもしろくはないが、ためになりそうな
本を読む。わからないところは飛ばす。
気に入らないところも飛ばす。これはと
思ったところでひと休み。・・・
もちろん、最後まで、読み切る必要はない。」

「本を読み切った感は格別だが、
もともとたいした価値はない。
途中で放棄した本から、
より大きな刺激を受けることがある。
わたくしは、いつしか、『風のように読む』
のがいいと考えるようになった。さらっと
上辺をなでるように読む。それでけっこう
おもしろい。それどころか、そういう読み方
でなくては目に入らないことが飛び込んでくる。」


「『風のように読めば、たくさんの本を見る
ことができる』。そのどこかに、自分のもって
いる波長と合うものがひそんでいるかもしれない。
風のように、さらりと読んでいても、自分の波長
にあったメッセージに出会えれば、『共鳴』と
いう発見がある。そういう読書によって、
人間は変身、進化する。」(p100~101)


うん。パラパラと
風がめくるように読んでいたら、
この箇所が飛び込んできました(笑)。
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西行桜。

2014-11-04 | 詩歌
謡曲「西行桜」がたのしい。
まるで、落語の花見見物のような
出だしがおかしい。

頃待ち得たる桜狩、
頃待ち得たる桜狩、
山路の春に急がん。


そういえば。
と「山家集」(岩波文庫)を
出して来て、最初にある春の歌を
パラパラとひらくと。

桜の歌のなかに、花見見物の人が登場する
歌があるのだな、これが(笑)。


  閑ならんと思ひける頃、
  花見に人々のまうできければ

花見にと
むれつつ人のくるのみぞ
あたら桜のとがにはありける

花もちり
人もこざらむ折は又
山のかひにてのどかなるべし


ちらぬまは
さかりに人もかよひつつ
花に春あるみよしのの山


 さて、桜見物の一行が
西行の庵に、入ってもいいかと
尋ねる箇所が、
落語の大家さんと店子みたいで、
この箇所も、桜が取り持つおもしろさ。

  かしこまって候。
如何にかたがたへ申し候。
よき御機嫌に申して候へば、
見せ申せとの御事にて候程に、
急いで此方へ御出で候へ。


うん。ここで、ドナルド・キーン対談集
「日本の魅力」(中央公論社)から引用。

芳賀】 ・・・それを文学作品として
評価することは少なかったのじゃありませんか。

小西】 少なかったというよりも、悪い評価を
したわけですよ。あれは綴れ錦、つまりつぎはぎの
細工で、つまらぬ文章だというふうに、普通、
評価しましたね。

キーン】 私の尊敬できない本には、まだよく能の
文章は綴れ錦のようなものだと書かれていますね。
しかしそれは私にいわせるとまったく違うんです。
いくら『古今集』などの引用があっても、独特の文章です。


芳賀】 ぼくは謡曲を文学作品として読むというのは、
アメリカの大学に行って、初めてそういうセミナーに
出席してみて、なるほどと思った。・・・・・

小西】 日本人は謡曲を普通まともに読みませんね。
謡の技術を増進するために読むとか・・・・。



芳賀】 最近でも謡曲を文学作品として読む
ということは、まだ普通にはなっていませんね。

小西】 そうですね。まだ能の台本として読む
ようですね、日本の国文学者は。

  (1973年1月)


ということで、対談集も、別の視点から、
いろいろと、考えさせられるのでした。
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人生の冥加・岡崎久彦。

2014-11-03 | 前書・後書。
岡崎久彦氏。10月26日に死去。
84歳だった。(産経新聞10月28日一面に掲載)

そういえば、今年の読売新聞6月2日より
7月8日まで「時代の証言者」の欄に
岡崎久彦氏が登場しておりました。
その一回目の語りが思い浮かびます。
こうはじまっております。

「80歳を過ぎて人生が楽しいんです。
全てね、一つ一つ楽しんでいます。
80歳前に死んでいたら、そのことを
何も知らないままだった。・・・」

「楽しいのは仕事が軌道に乗ったからです。
36歳で外務省資料課長になって以来、
半世紀近く試行錯誤を繰り返してきた
国際情勢分析が、ここ数年でようやく
理想の形に仕上がったのです。具体的には、
国際情報を毎日、私を始め10人の元大使ら
からなる分析チームが翻訳、要約し、コメント
を付けて会員にメールで配信する事業です。
資料課長としてソ連、中国の情報分析から始め、
その後も外交官として国際情報分析に携わって
きましたが、分析の仕方を探しあぐねていたのが
米国でした。私は米国の動向を幾度か見誤って
います。・・・・・
米国は世論と政治の動向を読み解かねば予測でき
ません。世論、議会、ホワイトハウス、国務省が
あり、お互いに意見を戦わせるうちに政策が出て
くる。だから全部を眺めてどういうことを言って
いるかがわかれば、米国のトレンドが分かります。」

うん。この一回目の最後も引用しておきます(笑)。

「突発的なニュースはテレビに任せるとして、
私の事業が扱うのは、米国の外交評論、社説、
公聴会の記録、要人の演説です。毎月60本程度
ですが、米国の思潮全体を把握するに十分である
ことも分かりました。そして、世界の覇権国である
米国がどう考えているかを押さえれば、世界情勢を
見通すことが可能なのです。
米国で発表された最新の情報を収集、分析して、
日本時間の夕方には会員に配信できる。
その会費だけで研究所を運営しています。
国際情報分析をライフワークにしてきただけに、
人生の冥加に尽きます。」
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未発表講演速記録。

2014-11-02 | 他生の縁
WILL12月号の蒟蒻問答で
久保紘之氏が語っている箇所が
気になりました。

「・・井沢元彦が『週刊ポスト』で
『昔陸軍、今朝日。なぜバカがトップになって
しまうのか』と書いていましたが、朝日の場合
は独裁者じゃなく、指導者はみんな記者出身の
【雇われマダム】。かつて山本七平が
『指導者の条件』で指摘したような、
【無目的世話人】ばかりです。
つまり井沢の言うように、末期の旧帝国陸軍
大本営と同じ、『何一つ決定的な決断が下せず、
状況の変化や特異な刺激に反射的に反応するだけ』
の無能な人間ばかりで、『おそらく帝国陸軍にも、
(旧)国鉄にも、多くの倒産企業にも、また噂に
のぼる大企業にも、ほぼ共通する原則』(山本)
なのです。・・・・
僕がここで指摘したのは、いま朝日で進行している
事態はそれとは異なることです。【誤報】事件が
朝日新聞の存続のみではなく、
日本の尊厳にかかわる大問題であることを直視し、
有効な解決策を見出そうと努力するどころか、
上から下まで組織防衛のために社内の
【和】を最優先して【真実】に目をつぶり、
朝日攻撃に対して新たな反転攻勢に出ようと
しているのではないか、という点です。」
(p105)

気になった箇所なので、
さっそく文芸春秋社の山本七平ライブラリー5に
はいっている『指導者の条件』をひらく。
その最後にはこうあります。
「『指導者の条件』は山本七平氏の未発表の
講演速記録、雑誌原稿等を、
ご遺族の了解を得て、編集部が再編集
したものです。」とあります。

あれ。この本の解説はというと、
何と、久保紘之氏じゃありませんか。
この機会に、この本を読まなきゃ(笑)。
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素知らぬ。

2014-11-01 | 詩歌
思潮社・現代詩文庫1044「竹中郁詩集」。
安水稔和さんの編でした。文庫の最後に、
安水さんの「詩人さんの声」が載ってます。
その文の最後を引用。

「・・・最後の詩集になった第九詩集
『ポルカ マズルカ』は昭和54年刊。・・・
読売文学賞を受賞。井上靖は推薦の文章で、
『象牙海岸』以来のこの詩人の本質が少しも
変わらず、さわやかな到達を見事に示している
と評した。しかも文学的表現の困難な老いを書き
『静かに少しだけ華やかに人生の哀感が素知らぬ
形で語られている』と結んでいる。
本詩集刊行後二年余で詩人は他界した。
四十年前、詩人のたまごであったわたしたち
『ぽえとろ』の仲間は、竹中郁のことを詩人さん
と呼んでいた。神戸で詩人といえば竹中郁。
そこで詩人さん。今日町で詩人さんに会ったよ。
詩人さんが元町通りを歩いていたよ。
詩人さんが電車に乗っていたよ。
どこででも詩人さんは目立った。
若い頃からの見事な白髪。
遠くからでも聞える闊達な声。
竹中郁はずっと詩人さんでありつづけた。・・・
亡くなって十年、神戸の街角を歩いていると、
今日も詩人さんの声がはっきりときこえる。

 「生きましょうよ」
 向いあったあなたとわたし
 「しゃべりつづけて生きましょうよ」
     ( 「桃・麦・あなた」冒頭 ) 」



ちなみに、この現代詩文庫には年譜があります。

1904(明治37年)生まれ。
1982(昭和57年)満77歳11か月で死去。
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