和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

愛着がわく賢治本。

2023-07-16 | 本棚並べ
食べ物もガツガツと食べられない癖して、美食を欲するように、
本も全集を読めない癖して、特定箇所だけを読みたいと欲する。

ちょうど、私が今、読みたいと思っていた宮沢賢治がそこにありました。
森荘巳池著「野の教師 宮沢賢治」(近代作家研究叢書86)。
うん。ここは続橋達雄氏の解説から紹介。

「・・『野の教師 宮沢賢治』は新書判・・・
 1960(昭和35)年11月28日、普通社から出版された。

 口絵写真に1937(昭和12)年ごろ撮影の岩手軽便鉄道を収め、
 それらを含め全256ページ、本文251ページ。
 『花巻農学校精神歌』を巻頭に据え、章立てはしないものの
 実質的には10章から成る。内容は、賢治が1921(大正10)年 
 12月3日から26(大正15)年3月31日まで在籍した農学校の教師時代、

 『 この4ヶ年はわたしにとって / じつに愉快な明るいもの 』
 (「春と修羅」第二集『序』)だったと繰返しなつかしんだ生活を、
 当時の教え子や職場の同僚の回想を交えてまとめたものである。

 具体的には、佐藤隆房『宮澤賢治』、
 関登久也『宮澤賢治素描』『続宮澤賢治素描』などから
 農学校教師時代のエピソード数篇を選んで整理し、

 自ら司会して賢治の同僚から聞き出した話(座談会記事他)
 などを加えて一書にまとめている。これは、農学校教師像に
 焦点をあてて、それまでに集められたエピソード類を
 簡潔に整理した最初のものであった。・・・・

 巻頭に据えた宮沢賢治作・川村悟郎作曲『花巻農学校精神歌』は、
 本書ぜんたいを包みこむものであろう。・・・
 『精神歌』について堀籠文之進に語らせ、自らはほどんど語らない。
 その禁欲的な扱い方が、これを巻頭においた意味をかえって
 鮮明にしていると思われる。・・・・・

 先を急いでしまったが、教え子の語る賢治像と、
 教師になるまでのエピソードを集める『彼の周辺』との間に、
 同僚などからみた教師像、ときには、教師の肩書をとった人間像、
 が語られる。それは、教え子の目に映じた人間像と交流しあって、
 農学校教師としての賢治像をいっそうふくらませていくのである。
 ・・・・・        」

はい。今の私は、賢治のこういう本を読みたかったでした。
まだ、読んではいないけれど。出会えてよかった一冊。
 


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賢治童話と、しかるべき年齢。

2023-07-15 | 本棚並べ
本棚に、未読本がありました。
旺文社文庫『銀河鉄道の夜』(昭和45年)。
はい。すっかり忘れているくらいなので、
古本でつい買って読まずに、そのまま本棚に収まった一冊かと思います(笑)。

最後をひらくと、
入沢康夫(いりさわやすお)の『賢治童話との出会い』がある。
うん。5頁ほどの文を読んでみる。
興味深かったのは、賢治童話と年齢の指摘でした。


「もしもぼくが小学生のころに賢治の童話の多くのものに
 出会ってしまっていたならば、話の筋を辿って一応は面白がりはしたろうが、
 〈真の魅力〉にはほとんど触れ得ずに、賢治の童話が判ったつもりになって
 いたかもしれない。そして、そんなふうに思いこんでしまったことのために、
 その後の賢治童話の神髄に参入することができなくなったり、
 かなり邪魔されたりしたかもしれないのである。」

入沢氏ご自身のことを語ってもいました。

「 ・・賢治の童話の真の魅力のとりことなるには、
  小学生では少々むりで、やはり、15~6という年齢は必要だと  
  考えられるからである。ぼくの場合、それは

  あてどもない憧れと不安とにそそのかされながら、
  一人で、また時に、一、二の友人と共に、
  山野を歩き廻ったり、何やら詩らしきものを
  手帖に書きつけ始めたりしていた時期に当たっていた。 」

「 賢治自身も、童話集『注文の多い料理店』の広告文として
  書いた文章の中で、
 
  『 この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。
    それは少年少女期の終り頃から、アドレッセンス中葉に対する
    一つの文学としての形式をとってゐる 』と記し、
   
  この『 文学としての一形式 』が対象としている年齢層を指定している。
  物語の筋という点だけでいえば賢治の童話のうちかなりの数のものは、
  小学生にも理解でき、それなりに面白がることもできるだろうけれど、

  その≪ 真の魅力 ≫を
  ( それはまた『≪ 真のおそろしさ ≫を』ということでもある )
  感じとるためには、しかるべき年齢が必要であるということだと思う。」


はい。『しかるべき年齢』というのは、私の場合70歳。
待ってました。これから賢治童話との遭遇になります。
はい。遅いということはないです(笑)。これからです。

といっても、この旺文社文庫の本文はいまだ未読。
いったい、何十年前に買った古本なのやら。貰ったのやら。
あるいは、それ新刊で買ったのやら、すっかり忘れてます。


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児童漫画の読者たち。

2023-07-14 | 短文紹介
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史」
 ( 毎日新聞社・1977年 )を古本で購入。

いろいろな漫画家が登場しております。
パラパラめくっていると、こんな箇所がありました。

「 はじめは漫画への激しい意欲と情熱を燃やして描いたものが、
  次第に職業的熟練で処理していくようになる。

  大人漫画はいざしらず、児童漫画でこうなったら、
  その漫画家の生命はもう終りつつあるといっていい。

  少年読者は実に敏感に、作品を通して、その作者の
  エネルギーの減退をかぎとるからだ。

  現代の若者やこどもたちはシラケの世代だといわれる。
  たしかに彼等の行動や発言からはそれを感じさせる。

  だが、少なくとも児童漫画の読者たちは、
  漫画にシラケを求めてはいない。

  彼等が漫画に期待するのはホットな連帯感なのだ。
  まわりがシラケの環境であればあるほど、
  漫画の世界だけには熱い感情のたかぶりを求めるのだ。 」(p169)

これは、石ノ森章太郎を語った箇所にありました。
ついでに、石森章太郎はどう紹介されていたかも引用しときます。

「なんせ、つい最近まで、『趣味は?』と聞かれると、
『 漫画を描くこと 』と平然と答えた男(石森)だ。
 本業が『漫画を描くこと』で、
 趣味も『漫画を描くこと』。これはツヨイワ!
 漫画を描くことが面白くて、楽しくてしょうがないのである。
 ・・・・オトロシー。 」(p169)

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宮沢賢治の教師生活。

2023-07-13 | 本棚並べ
「賢治の教師生活は大正10年12月から同15年3月まで、
 4年4か月続けられた。」
( p208 萬田務著「孤高の詩人宮沢賢治」新典社・1986年 )

この萬田氏の本には、すこしあとに

「賢治の妹たちは
『兄のようにたえず何かを考えている人間はきっと長つづきはしまいと思った』
(堀尾「年譜宮沢賢治伝」117頁)らしい・・・」(p213)

年譜をひらけば、
大正15年・昭和元年(1926年)30歳
     3月31日花巻農学校依願退職・・・
昭和8年(1933年)37歳
     9月21日午後1時半死亡。

この萬田氏の本には、こんな指摘がありました。

「・・生徒たちとの交流を扱った
 『 台川 』『 イーハトーボ農学校の春 』『 イギリス海岸 』
 等の随筆的な作品がある。 」(p171)

はい。この3つの作品が読みたくなります。
萬田氏の文をつづけます。

「『台川』は生徒を引率して遠足に出かえた折のことが素材になったものである。」

「『イーハトーボ農学校の春』も実習風景を扱ったものである。
  明るい春の太陽がいちめんに降りそそぎ、
 『 太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、
    ひっきりなしにごうごうごうごう鳴って  』いる。」

 「 教師としての歓びあふれる体験が書かれていることは
   『台川』と変わりはない。異なるのは
   『台川』における教師の独白が、純然たる内的独白であったのに対して、
   『イーハトーボ農学校の春』のそれは生徒への語りかけになっていることである。

   さらに後者は、楽譜が挿入されたことによって
   音楽のリズムとことばのリズムがひとつに溶け合って、
   それがいわばミュージカル的効果を生み出している。・・・ 」

 「 『イギリス海岸』も夏休みの15日の農場実習の間に、
   『私ども』が『イギリス海岸』と命名したところで、
   生徒たちと遊んだ体験を扱ったものである・・・・

   この作には・・・・
   物事に対して知的好奇心をもつならば、
   それまで及びもつかなかったような歓びが発見でき、
   さらに現前の世界もいっそう広がるのだということである。

  『猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸』を
   イギリス海岸と命名した理由が詳細に書かれているのもそのためである。

  農学校の生徒といえども、農業に興味をもっているものばかりだとはいい難い。
  否むしろ、親に薦められて厭々入学した生徒のほうが多いだろう。

  そんな生徒たちに少しでも農業に対して興味をもたせることができたら、
  という希いが、この作品を書かしめたと思われる。 」( ~p173 )


あらたに、初心者の私が読んでみたい作品が紹介されておりました。
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賢治の『マコトノ草ノタネマケリ』

2023-07-12 | 思いつき
紀野一義が、詩集『春と修羅』の『序』を
引用して、指摘されている箇所があります。

「 『 これらは二十二箇月の
    過去とかんずる方角から
    紙と鉱質インクをつらね
     ・・・・
    ここまでたもちつづけられ・・  』

  てきたという。この『序』の書かれた
  大正13年1月20日から通算して二十二箇月といえば、
  大正11年3月20日ということになるが、
  このあたりは年譜を見ても特に注目すべきことはない。

  ただ、この大正11年の1月に、『屈折率』『くらかけ山』
  など、『春と修羅』第一集の詩作が始まっており、
  童話では『水仙月の八月』が書かれ、
  11月には妹とし子が死んでいる。・・・  」
       ( p18 「賢治の神秘」佼成出版社・1985年 )


はい。堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)の
大正11年2月に
「 農学校のために精神歌を作詞、川村悟郎が作曲をした。
   ・・・・・・

  はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
  3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、卒業式には、
  りっぱに歌いました。校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように
  言いましたが、宮澤さんは・・遠慮して校歌にはしませんでした。
    ―――堀籠文之進談 ・・・         」( p162~163 )


 はい。みんなで卒様式に歌ったとあります。
 はじめて、みんなで歌った時が、校歌の歌い初めだとすると、
 なんだか、私の思いつきは、『春と修羅』の『序』は、
 賢治の頭のなかに、校歌のことがあったのじゃないのか?
 ということでした。

 ちなみに、精神歌は、4番まであり、
 その4番の最後の2行は

 『 ケハシキ旅ノナカニシテ
   ワレラヒカリノミチヲフム 』 とあります。

 うん。これじゃ、校歌にしてくれという校長先生の頼みを
 すんなり了承するわけにはいかない言葉の気がしてきます。

もうひとつ、新潮文庫の『注文の多い料理店』には、
天沢退二郎の文のなかに、大正13年12月1日発行の
『イーハトヴ童話注文の多い料理店』の広告ちらしが引用されています。
「売れ行きは芳しからず、この1冊で終りとなった。その広告ちらしに
 掲載された次の文章は、まちがいなく賢治自身の執筆とみられ、
 重要な文献なので全文を引いておく。  」( p335 新潮文庫 )

 この広告ちらしのなかに、こんな箇所がありました。

「 この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。・・・
  この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。 」

はい、このあとに4か条書かれているのですが、ここでは最初の箇所を引用。

 「 🈩 これは正しいものの種子を有し、
     その美しい発芽を待つものである。・・・・  」


うん。ここで宮澤賢治が作詞した『精神歌』の1番が思い浮かびます。

「 日ハ君臨シカガヤキハ
  白金ノ雨ソソギタリ  」

1番は4行ありました。このあとの最後の2行はというと、
 
「 ワレラハ黒キ土ニ俯シ
  マコトノ草ノタネマケリ  」


はい。どなたかが言っておられるかもしれませんが、
それはそれで、かまわないわけですが、
ここで、私が指摘してみたいのは、
『精神歌』と『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』とは、
心象スケッチのかかせないつながりがあるのだろうなあ。

そんなことを思いながら、ひとりユーチューブで精神歌を聴きます。




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ああでもない、こうでもない。

2023-07-11 | 思いつき
宮澤賢治の年譜をみると、

1921(大正10)年25歳
   12月3日稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。
1922(大正11)年26歳
   2月 農学校のために精神歌を作詞
     川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲した。

これは、中公文庫「年譜宮澤賢治伝」堀尾青史著・1991年から引用。
その次のページには、堀籠文之進談として、こうあります。

「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
 こうでもないと作曲しておりました。ですから私たちは、
 できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。

 題ははじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
 音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。

 畠山校長もいい歌だと感心していました。
 はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで
 練習していましたが、3月の式に間に合うように、
 全部の生徒に歌わせ、卒業式には、りっぱに歌いました。

 校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
 宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、遠慮して校歌にはしませんでした。
 ・・・・           」( p163 文庫 )


ちなみに、ちくま文庫「宮沢賢治全集4」には
「農学校歌」と題して掲載されております(p318~319)
これは、文庫の間違いなのでしょう。
ユーチューブで「精神歌」と検索すると、その歌が聞けます。
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オノマトペの童話音楽。

2023-07-10 | 朗読
紀野一義氏は、宮沢賢治の童話をラジオで聞いている際に、
『これが色彩と、音響と、ことばとで織りなされた幻想的な映画になったなら』
と綴っておりました。(p112 「賢治の神秘」佼成出版社・1985年)

イーハトヴ童話『注文の多い料理店』全をひらいて
序のあとにつづく童話『どんぐりと山猫』をめくっていたら、
そのオノマトペのオンパレードに、ついつい
紀野氏の『色彩と、音響と、ことばで織りなされた』という箇所が
思い浮かんできました。

はい。これは山猫の裁判の様子が童話で描かれているのですが、
ここには、オノマトペを列挙してみることに。

おかしな葉書が舞いんできたところから、はじまります。

「字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらい・・・」

「山猫のにゃあとした顔や」

「 まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのように
  うるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。」

「 すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとし 」

「 笛ふきの滝でした。・・滝がぴーぴー答えました。」

「 一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、
  どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。」

「 すると、男はまたよろこんで、まるで、
  顔じゅう口のようにして、にたにたにたにた笑って叫びました。」

「 そのとき、風がどうと吹いてきて 」

「 足もとでパチパチ塩のはぜるような、音をききました。」

「 草のなかに、あっちにもこっちにも、黄金いろの円いものが、
  ぴかぴかひかっているのでした。」

「 こんどは鈴をがらんがらんがらんがらんと振りました。」

「 革鞭を二三べん、ひゅうぱちっ、ひゅう、ぱっちと鳴らしました。」

「 それはそれはしいんとして 」

「 鞭をひゅうぱちっ、ひゅうぱちっ、ひゅうひゅうぱちっと鳴らしました。」

はい。まるでオノマトペを聞き惚れるようなやすらぎ感。
ちなみに、新潮社文庫の「注文の多い料理店」には

「どっててどっててどっててど」とはじまる
「 月夜のでんしんばしら 」の楽譜がp325にありました。






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犬養毅・安倍晋三。

2023-07-09 | 産経新聞
産経新聞7月9日の一面は『安倍元首相銃撃1年』と出ておりました。
阿比留瑠比氏の署名記事でした。
「 ・・・安倍晋三元首相が暗殺された奈良市の
  近鉄大和西大寺駅前を、一周忌の8日に訪れた。
  歴史に残る事件の痕跡も、憲政史上で最長の首相だった
  安倍氏の生涯を表す物も何もないことに無常感を覚えた。
  ただ、ささやかな献花台に訪れた人たちが静かに生花を
  たむけ、祈りをささげていた。・・  」

一面の写真は、その献花台に列して黙祷されている方々の姿がありました。

一面のコラム『産経抄』は、こうはじまっておりました。

「 犬養毅首相を海軍の青年将校が暗殺した『五・一五事件』では、
  すべての被告が極刑を免れている。

  当時の新聞は、偏った立場で裁判を報じた。
  『 動機に至っては、憂国の純情そのもの 』
  『 その悲壮な国士的精神、犠牲的精神の純真さに感動を禁じ得ない 』。

  筒井清忠著『 戦前日本のポピュリズム 』から孫引きした
  複数の新聞記事は、浪花節的な筆致が驚くほどに似ている。・・・

  ・・当時の世情の荒(すさ)みは、想像に難くない。
  裁判からおよそ90年、同じ轍は踏まない――
  と高をくくってはいられないようである。

  安倍晋三元首相を暗殺した男に対し、
  支援の動きが続いているという。・・・・

  言論の自由とは、何を言っても許されることではない。
 『暗殺が成功してよかった』(島田雅彦法政大学教授)と口走ることでもない。
  旧統一教会との関わりに巻き込まれた男の不遇も
  事件を正当化する理由にはならない。・・・      」


はい。あらためて、黙禱とともに、
筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」を注文することに。
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風をたべ。朝の光をのむ。

2023-07-08 | 前書・後書。
私など、本を数行・数頁読んだだけで、
何だか、満腹で先へ読み進めなくなる。

などと、本を食べ物にたとえることがあります。
じゃあ、本を書く人にとってはどうなのだろう。

新潮文庫「注文の多い料理店」の目次をひらく。
最初は、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』(全)とあります。

  序
 どんぐりと山猫
 狼森と笊(ざる)森、盗森
 注文の多い料理店
 烏の北斗七星
 水仙月の四日
 山男の四月
 かしわばやしの夜
 月夜のでんしんばしら
 鹿踊りのはじまり

目次は、そのあとにも続いておりますが、
とりあえず、私が読みたかったのはここまで。

序をひらくと、こうはじまっておりました。

「わたしたちは、・・・
 きれいにすきとおった風をたべ、
 桃いろのうつくしい朝の光をのむことができます。

 ・・・・
 これらのわたくしのおはなしは、
 みんな林や野はらや鉄道線路やらで、
 虹や月あかりからもらってきたのです。  」


ちょっと思うのですが、林や野はらはわかるのですが、ここで
どうして鉄道線路なのだろう?鉄道ファンの『鉄ちゃん』だから?
まあ、それはそうとして、序からの引用をつづけます。

「 ですから、これらのなかには、
  あなたのためになるところもあるでしょうし、
  ただそれっきりのところもあるでしょうが、

  わたくしには、そのみわけがよくつきません。

  なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、
  そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 」

はい。つぎは、この序文の最後になります。

「 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、
  おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、
  どんなにねがうかわかりません。

       大正12年12月20日    宮沢賢治         」


こんな序文があったなんてね。さて、この序文をどう読めばよいのか?
この新潮文庫の最後の方には、井上ひさし氏の6ページほどの文があり、
そのはじまりは、こうありました。

「 宮澤賢治の『正しい読み方』、あるいは『正義の鑑賞法』など
  あろうはずがない。読者はそれぞれ自分の背丈に合わせて、

  この稀有の詩人にして世にも珍しい物語作家の創ってくれた
  世界で、たのしく遊べば、それでいい。

  解説は、だから、これでおしまい。これから書くことなどは、
  蛇足も蛇足、蛇の足の先の、爪の垢同然の、余計な付足しである。 」

こうして
「 つめくさはマメ科の多年草でずいぶん根が長い。・・・ 」
話しをはじめ、その長い根にひっかかるように宮澤賢治が浮かびあがります。


うん。新潮文庫の序と、解説とを引用しただけで、満腹感。





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そぎ落とされた言葉の情報。

2023-07-07 | 前書・後書。
はい。まえがきと、あとがきと、それしか読んでこなかった
私みたいな者には、その箇所が充実した要約だったり、
問題提起だったりするのは、なんだか得した気分になります。

古本で、山極寿一の本が安かったので購入。
『はじめに』だけを読むのでした(笑)。

「 今、わたしたちの暮らしはとてもいそがしくなっている。
  それは世の中にたくさんの情報があふれていて、それを
  取り込もうとして人々がいつもスマホやインターネットに
  向かい合っているからだ。

  まるで人とつきあうことはそっちのけで、
  スマホばかりつきあっているように見える。

  でも、たくさんの情報を集めても、
  たくさんの人と仲よくなれるわけではない。

  むしろ、まだ顔も知らない人から相談をもちかけられたり、
  いろんな誘いがあったりして、目の前のことができなくなる。

  さまざまな情報が乱れ飛ぶので、なにを信用していいかわからなくなり、
  不安にかられる。知らない人からやっていることを非難されたり、
  自分の行動をどこかでだれかが見ているような気がして不安になり、
  落ち着かなくなる。

  ・・・・情報は変わらないけれど、生き物はつねに成長して
  変わっていく。今日の自分は昨日の自分ではないし、
  明日もちがった自分になるはずだ。好みも変わるし、
  友達との関係も変わる。そのなかで、自分というものを
  保ち続けるのはなかなか難しいことなのだ・・・・    」

すこし飛ばして、そのあとにこんな箇所がありました。

「 言葉は世界で起こるいろいろな出来事を抽象化し、
  簡潔に伝えるための道具だ。・・・・

  でも、言葉は情報にはならないものをたくさんそぎ落としている。

  たとえば、怒りや悲しみにはいくつもの種類や程度の差があるのに、
  それは言葉ではなかなか表現できない。

  怒っているように見えても、
  ほんとうはだれかに助けてもらいたがっていたり、
  けんか腰に見えても仲直りしたがっているような態度は、
  その場に居合わせなければ理解することが難しい。

  しかも、人間は人間だけで暮らしているわけではない。
  虫や鳥や動物と、植物とだってさまざまにつきあいながら
  日々の暮らしを豊かにしている。

  言葉を使わずに、イヌやネコと、ときには
  植木鉢の花と会話することもある。
  それはたがいに生き物だからこそ、感じ合うことのできる
  コミュニケーションなのである。

  そして、人間が自分を他人の反応によって自覚するように、人間は
  ほかの生き物の反応によっても人間であることを意識できるのだ。

  とくに、人間とはいったい何者であるかを知るためには、
  人間以外の生き物とつきあってみる必要がある。

  ネコを定義するためにはネコ以外の動物を知らなけらばならないように、
  人間を定義するためには人間との境界域にいる動物を知ることが
  不可欠になる。

  そこでわたしは、ゴリラの国に留学することにした。・・・   」


はい。本文は、そのゴリラのお話になっているようですが未読。

山極寿一著「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」(家の光協会)



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『草むしり』の禅問答。

2023-07-06 | 本棚並べ
火曜日に届いた古本に、
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社・2002年)。内容は、
編集者としてご自身の日記から、故人をしのぶ箇所をとりあげてあります。

はい。こういうのは、横着なパラパラ読みには格別の味わいがあります。
ここはひとつ、芳賀幸四郎先生にまつわる古い日記をひらいている箇所。
そこを引用してみることに。

「 昭和40年9月16日 草むしり五徳

 今日は、昨日の敬老の日の代休日。10時頃から庭掃除。午後5時に終わる。

 何時だったか、芳賀幸四郎先生と話をしたときのことだった。
 君の趣味は何だね・・と。
 僕の趣味は草むしりですよ・・・と答えた。

 先生は、臼井君には魂消(たまげ)たよ・・・と、
 その理由はいったい何だと、それを言え、
 それを言わんと帰さんぞと禅問答みたいになり、
 結局草むしりの十徳か五徳かを語りあった。

 〇 個、孤独の自分が発見出来るということ!
   毎日毎日、誰かと何かを、いやな話ばかりに追っかけられている。
   禄でもない話ばかり。せめて一人になりたい。
   草むしりは自分をひとりにするものだ。

 〇 雑草の生命をきくことが出来る!
   草むしりである以上、雑草を取るのだが、
   雑草とて生きんがため、生命をかけて生きている、
   その姿を発見出来るということ。

 〇 土の感触から大地の呼吸を感じられる。・・・・

 〇 自問自答の時間が得られる!
   ぶつぶつと、何をつぶやいてもいい。
   自らが自らに問いただすこと。そのことの意味は大きい。
   そのことが出来るのは、この時間をおいて外にはない。禅ぐらいか?

 ・・・・・・・そんな話をしたことを思い出す。
 面白いことを言う奴だ、と笑われた。・・・・・    」( p106 )


ちなみに、芳賀徹のお父さんが芳賀幸四郎。

昨日、待っていた、新潮文庫の古本「注文の多い料理店」が届く。


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挨拶はたいへんだ。

2023-07-05 | 思いつき
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬舎新書・2023年6月)。
この新書を引用したときに、気になっていた箇所がありました。
まずは、そこを引用。

「・・さらに、重要な役割を持った語を後ろに配するという
 一貫性のある文の構造をしていましたね。
 そして、常に相手の遇し方に気を配り、敬語という特別な
 言語形式を持っていました。・・・          」(p170~171)

はい。『重要な役割を持った語を後ろに配する』というのは、
現在の日本語が、いちばんに変化している箇所ではないかと、
そんなことが思い浮かんだのでした。

うん。現在というと、いろいろとありそうなので、
ちょっと、ここは変化球で、思い浮かんだ本をとり出してくる。

丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社・2001年。後に文庫)。
この最後に、井上やすし氏と丸谷さんの対談「スピーチでできること」
が載っていて、印象深い箇所があったのでした。

文壇の授賞式のことを語って、一読笑って印象に残ります。

井上】 あれは語り草です。

丸谷】 「私は文学者とはどういうものかということを考えるんです。
     一昨日、ある作家の追悼会があって、私は出たんでありますが」
   ではじまって。

    「いや、待ってください。一昨日じゃなかったかもしれない。
     一昨々日だったかもしれません。いや、待ってください。
     昨夜だったかもしれません」(笑)。

   聞いてるほうとしては、どっちだっていいわけよね。
   それなのに、ものすごく厳密を期すんですね。

井上】 そんなことを期してどうするんでしょう。

丸谷】 あれはおかしかったなあ。

井上】 あまりの長いスピーチのために、受賞者の一人が、
   『 いいかげんにしないか 』と怒鳴った。

丸谷】 そうそう。あの一言で、彼はあの晩、隋一の人気だったでしょう。

井上】 スピーチを聴いている人たちではなくて、
    受賞者の一人が言うんですから、すごい。

丸谷】 日本の昔の文学者みたいですね。

井上】 そうですね。

丸谷】 直情径行だから。でもあれは出席者全員の声を代表してたな(笑)。
    詩人たちの会というのは長いのよね。

井上】 普段、短く書いているからでしょう(笑)。

丸谷】 高見順賞のパーティなんて長い。
    それから、受賞者の挨拶というので、
    だれそれに感謝します。だれそれに感謝しますっていうのを、
    はじめから終りまでしゃべる人がいるでしょう。
    20人も30人もに対して感謝する。
    それで終りなのね。

井上】 ハハハハハ。

丸谷】 感謝される対象と感謝する人との共同体だけの問題ですよね。

井上】 そうですね。

丸谷】 さっき井上さんがおっしゃった、
    その場にいる人間の共同体は、
    どっかに置き去りにされてるわけです。

井上】 そうです。
   
     ・・・・・           ( p222~223 単行本 )


日本語の歴史からみて、
『 さらに、重要な役割を持った語を後ろに配する
  という一貫性のある文の構造をしていましたね 』

はい。現在のTPOに即した、日本語をつかうには、
うん。現在の人がその都度、挨拶の場で考える?


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大正15年の『一読する必要があります』

2023-07-04 | 書評欄拝見
ネット注文した古本、新潮文庫の『注文の多い料理店』が
今日あたり届く頃です。

はい。手にする前に大正14年・15年の草野心平さん。
もう、今から百年ほど前の草野心平さんの言葉を拳拳服膺しとかなきゃ。

「・・なかには草野心平のようなひともいることはいた。
 当時、まだ中国広州嶺南大学在中であった草野は、後輩から贈られた、
 刊行されて間もない『春と修羅』を読んで深い感銘を受け、
 翌14年、日本に帰国するやいなや賢治を、自らが主宰し創刊した
 同人誌『銅鑼』の同人に勧誘したのである。賢治もその勧誘に応じ、
 詩作品二篇を草野の許に送ったが、草野は草野で、賢治から送られてきた
 二篇を『銅鑼』第4号(大正14・9)の巻頭に据える・・・ 」

さてっと、それでは、草野心平さんは、賢治の童話を、どう評したのか?

「・・・童話についても、童話集刊行の約一年半後――
 大正15年8月号の『詩神』の詩壇時評で、

 『 童話界に於いても、最近すばらしい収穫として、
  【 注文の多い料理店 】を一読する必要があります。
   今後どんな仕事をして行くか、恐るべき彼の未来を想ふのは
   私にとつて恐ろしく、よろこびである  』

 と書いたが、当時まだ学生であった草野の、この最大級の賛辞も、
 詩壇や文壇あるいは一般大衆に影響を及ぼすまでにはいたらなかった。 」

  ( p196~197 萬田務著「孤高の詩人宮沢賢治」新典社・1986年 )


はい。草野心平氏が約百年前から
『 一読する必要があります 』と語っていたのに、その百年後、
ようやく、私は文庫で『注文の多い料理店』を手にするところです。

ということで、郵便はたいていお昼ごろ配達されるので、
今日届きますかどうか(笑)。

はい。古本が届くまでの待ち時間。


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客車の窓は、水族館の窓になる

2023-07-03 | 絵・言葉
紀野一義「賢治の神秘」(佼成出版社)のなかで、
紀野氏が、テレビアニメ「銀河鉄道999」を紹介しておりました。

それが、気になるので、
杉井ギサブロー監督・細野晴臣音楽のアニメ映画『銀河鉄道の夜』の
劇場公開日を見ると、1985年7月13日とあります。
紀野一義著「賢治の神秘」は1985年7月2日に第一刷発行。

つまりタッチの差で、紀野一義氏は、この本の文を書いた時には
まだアニメ映画『銀河鉄道の夜』を見ていなかったと分かります。

それはそうと、今の私だったらすぐ思い浮かぶアニメ映画といえば
宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』。それも後半の電車の場面でした。

たとえば、宮沢賢治の詩『青森挽歌』のはじまり。

「 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
  客車のまどはみんな水族館の窓になる

      ( 乾いたでんしんばしらの列が
        せはしく遷つてゐるらしい
        きしやは銀河系の玲瓏レンズ
        巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる )

   りんごのなかをはしつてゐる
   けれどもここはいつたいどこの停車場だ
   枕木を焼いてこさえた柵が立ち
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    」


はい。アニメ映画のなかの『銀河鉄道』の系譜。
なんてのをつい思い描いてしまいたくなります。


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これが色彩と、音響と、ことばとで

2023-07-02 | 絵・言葉
原子朗の「賢治・その受容と研究の歴史」をひらいたら、
「新制大学」という言葉が出てくる箇所がありました。

「 さらに、伝記研究も詳細な調査をもとに充実をみせてくる。
  堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』(1966年)は画期的なもので、
  やがて後年の校本全集年譜に結実する。

  総じてこの時期には前にいった読者の増加、
  新制大学の急増・充実につれて、卒業論文や、
  それを指導する教師たちが、賢治の人気や研究を
  おし上げていった事情がある。

  そのことはあまりいわれていない、
  この期以降もつづく賢治受容上の一大側面である。 」

   ( p382 「群像日本の作家12 宮澤賢治」小学館・1990年 )

はい。この文には、まだ気になる箇所がありました。


「 そうした一般の賢治受容のひろがりと層の厚さは、
  おのずからまた賢治の人気を高めていると思われるが、

  劇、映画、音楽、漫画までふくめた賢治作品の聴視覚化、
  ひいては専門的な評論や研究の盛行の基盤ともなっているのであろう。

  それにつけても賢治の多面性の魅力、こどもからおとなまで、
  すぐに入っていける親しみやすさ(圧倒的に童話がその役割をしているが)、
  そこにはまた安直な賢治理解や、
  一面だけでわかったつもりの賢治論等の出てくる落し穴もある、
  ということを思わずにはいられない。     」( p383 )

うん。ということで、最後に
紀野一義氏の「『銀河鉄道の夜』解説」の最初の箇所を引用

「童話『銀河鉄道の夜』は、賢治の妹とし子が若くして
 死んでしまったあと、賢治が一生かかって書き、
 完成しているように見えて、実はついに完成することが
 できなかった、ほんとうの、ほんとうの、ライフワークである。

 この作品はかつてラジオドラマに構成されて放送されたことがある。
 それを聞きながら私は、これが色彩と、音響と、ことばとで織りなされた
 幻想的な映画になったらどんなにすばらしいかと思ったものである

 のちにテレビが普及し、松本零士によるアニメの超大作
 『銀河鉄道999』がテレビに放映された時、
 
 『 あっ、これは銀河鉄道の夜だ 』と叫んだものだった。・・」

   ( p112 紀野一義「賢治の神秘」佼成出版社・1985年 )
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