墨田区・両国から竪川の北側を東に向かう元佐倉道(旧千葉街道)は、中川(現・旧中川)を「逆井の渡し」で越え、現在の江戸川区小松川地域に入ります。そのまま北東に直進、「四股」で行徳道と交差して市川方向に進みます。
「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって30年前、40年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。
「逆井の渡し」付近(明治13年)。すでに中川には橋が架けられています。西から来て橋を越えて北東への直線道が元佐倉道(旧千葉街道)、右上斜めに通る道が行徳道。「逆井(さかさい)」という地名は中川の北東側に見えます。
江東区・亀戸付近。右が竪川上の首都高の橋脚。
逆井橋。明治12年に橋が架けられ、「渡し」が廃止された。「渡し」跡の案内板は少し下流の江戸川区寄り(左岸)にある。右に渡り市川(北東方向)に向かった。
江東区側から。
「案内板」。風光明媚な場所だった、らしい。
街道は、逆井橋を渡って右に曲がり最初の角を左に曲がって北東に向かう。
道路沿いの案内板。
百日紅の並木道になっている。
行き止まり(荒川沿いの工事現場)近くの公園にある案内板。所々、親切に設置されている。
正面で行き止まり。
西側を望む。
「亀小橋」。かつて都電が中川を渡っていた。
「逆井橋」から「亀小橋」を望む。右手が江戸川区、左手が江東区。
橋の歩道上のモニュメント。
このあたりが都電の終点。
高速道路下。旧千葉街道もこの付近で北東に向かって一直線に進み、「四股」で行徳道と交差することになる。
「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって30年前、40年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。
「逆井の渡し」付近(明治13年)。すでに中川には橋が架けられています。西から来て橋を越えて北東への直線道が元佐倉道(旧千葉街道)、右上斜めに通る道が行徳道。「逆井(さかさい)」という地名は中川の北東側に見えます。
江東区・亀戸付近。右が竪川上の首都高の橋脚。
逆井橋。明治12年に橋が架けられ、「渡し」が廃止された。「渡し」跡の案内板は少し下流の江戸川区寄り(左岸)にある。右に渡り市川(北東方向)に向かった。
江東区側から。
「案内板」。風光明媚な場所だった、らしい。
街道は、逆井橋を渡って右に曲がり最初の角を左に曲がって北東に向かう。
道路沿いの案内板。
百日紅の並木道になっている。
行き止まり(荒川沿いの工事現場)近くの公園にある案内板。所々、親切に設置されている。
正面で行き止まり。
西側を望む。
「亀小橋」。かつて都電が中川を渡っていた。
「逆井橋」から「亀小橋」を望む。右手が江戸川区、左手が江東区。
橋の歩道上のモニュメント。
このあたりが都電の終点。
高速道路下。旧千葉街道もこの付近で北東に向かって一直線に進み、「四股」で行徳道と交差することになる。