再び細い直線道路として南下する「佐倉道」は、京成電車「江戸川」駅の西側のガードをくぐると、正面(南)から来た元佐倉道(旧千葉街道)と合流し、江戸川堤へ向かう。このあたりに「小岩・市川の渡し(関所)」があった。渡河した旅人は南東に進んでいく。
江戸川の河川敷に消えた「佐倉道」はこのあたりで再び道の姿を現す。
一直線で南下する。周囲には神社仏閣が並んでいる。
江戸川駅近くの商店街の店先にある「道標」。安永4(1775)年建立。
「伊与田の道標」。伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいる。
京成線のガードをくぐる。
正面が元佐倉道(旧千葉街道)。ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。
元佐倉道から佐倉道との合流点を望む。
角にある案内板(御番所町跡)。
この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っている。
道沿いに家が建ち並ぶのが佐倉街道。
左(西)にある(土手)道は、「現岩槻街道」となる古道と思われる。右(東)の土手道は江戸川河川敷内となり、消滅。
突き当たりが江戸川の堤。
佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。
角柱。案内板がないと見落としそう。
案内板。
それによると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 江戸川区教育委員会」
小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。昭和9(1934)年江戸川改修工事の際に寳林寺(宝林寺)境内に移された。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
台石下部。
1870年代のようす。 2010年代のようす。