荒川河口より4.8㎞(江戸川区松島2丁目)、小松川大橋の北側、サイクリングロード沿いの「案内板」。その中に、
「旧千葉街道と行徳街道」
現在、江戸川区北部を横切る旧千葉街道は、明治8(1875)年に千葉街道と改称されるまでは、元佐倉道と呼ばれていました。現在の小松川大橋と中堤の接点付近で、行徳街道と十字に交差し、そこは四股(よつまた)と呼ばれて交通の要所であり、生活の中心地でもありました。しかし、四股とその周辺の地域は大正2(1913)年に荒川放水路の開削により水没しました。四股近くの行徳街道には橋が架けられていましたが、この橋の一部は2つの道標とともに現在も保存されています。
とあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e7/108ea338cf09d73f7b0b46eb38edcba5.jpg)
明治13年から17年にかけて作成された「古地図」によれば、はっきりと「四股(四つ又)」という地点が分かります。しかし、交差地付近には民家も少なく(集落は平井・小松川村側にある)、田んぼの中の「十字路」(大正時代になると、役場や学校、道沿いに商家があった、ということです:江戸川区教育委員会「江戸川区の史跡と名所」より)。行徳街道はここから少し道が広くなっているようです。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」
まだ荒川放水路(荒川)が開削されていなかった当時の地図(明治13年作成)。現在の小松川大橋の北、荒川と中川との中堤に位置する。南西から北東に進むのが「元佐倉道」(千葉街道)。北西から南東に向かうのが「行徳道」(今井街道)。元佐倉道は中川(地図の西方)を「逆井の渡し」で渡り、行徳道は「平井の渡し」で渡りました。元佐倉道(旧千葉街道)は、南西に進むと両国、東北に進むと市川へ。行徳道(今井街道)は、北西に進むと浅草、南東に進むと行徳へ。ちょうど「四股」はそれぞれへのほぼ同じくらいの距離に位置していたようです。地図の右(東)に流れる川は、小松川境川(現在は親水公園)。
旧千葉街道と船堀街道の交差点近く。「八蔵橋」。
橋近くにある「元佐倉道」の説明板。
四股にあった「橋」の遺構部分が、これ? 上記・荒川沿いの「案内板」にも同じものが掲載されている。実は、まったく別のもののようで、本物は違う場所に保存されている、らしい。その現物は、旧千葉街道近くの個人宅の中にあるため、確認できず。
八蔵橋から中川までが「五分一通り」。
五分一通り(元佐倉道)東側を望む。
日光街道・千住の宿より分岐した水戸街道(陸前浜街道)から新宿(葛飾区)で分岐した街道が「佐倉道」。それに対して、この道が「元佐倉道」と称されたと思われます。
中川土手から八蔵橋までは、昔ながらの街道筋になっています。
中川にぶつかると、直角に道が曲がるのがきわめて不自然で、荒川・中川放水路の開削によって「元佐倉道(旧千葉街道)」が分断されたことが分かります。
松江橋近くにある「行徳道」についての案内板。それによると、もともとの道はこの橋の下流の「椎橋」を通っていた、という。
「椎橋」。当時の「行徳道」。
首都高橋脚下。少し左に曲がってそのまま直進する狭い道筋。
元の「行徳道」。突き当たりが、中川の土手。今、このあたり、首都高小松川線と中央環状線とのインター設置計画が浮上、またまた大きく様変わりしそうです。すでに土地の買収が始まっています。
行徳道。現在の「今井街道」。この道の南に沿って城東電車(後に市電・都電)が走り、廃止後は、この道にトロリーバスが走っていました。城東電車江戸川線(東小松川~今井)が廃止されてすでに60年近く、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも既に40年以上が経過しました。
「四股」の橋の遺構の他に、秋元邸内と川野邸内には四股にあった「道標」が保存されている、とのこと。
その一つ。秋元さんのおうちの前の説明板。全く薄くなり読み取りにくくなってしまって、残念。道標はお庭にあるようです。
銘文には、「大山石尊大権現 此の向キ市川道 秩父三峯山大権現 此の向キ浅草道 讃州金毘羅大権現 此の向キ行徳道 遠州秋葉大権現 此の向キ両国道」と四面(北東・北西・南東・南西方面)と銘記されている、とのことです。文化2年建立。
左手が「秋元邸」。
高速道路下、正面の草地あたりがかつての「四股」付近。
遠くにスカイツリー。その向こうに浅草がある。「平井の渡し」を越えた「行徳道」は、スカイツリー近く、北十間川沿いの道(一部は現在の「浅草通り」と重なる)につながっていた、らしい。
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2010年代のようす。○が「四股」付近。
「旧千葉街道と行徳街道」
現在、江戸川区北部を横切る旧千葉街道は、明治8(1875)年に千葉街道と改称されるまでは、元佐倉道と呼ばれていました。現在の小松川大橋と中堤の接点付近で、行徳街道と十字に交差し、そこは四股(よつまた)と呼ばれて交通の要所であり、生活の中心地でもありました。しかし、四股とその周辺の地域は大正2(1913)年に荒川放水路の開削により水没しました。四股近くの行徳街道には橋が架けられていましたが、この橋の一部は2つの道標とともに現在も保存されています。
とあります。
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明治13年から17年にかけて作成された「古地図」によれば、はっきりと「四股(四つ又)」という地点が分かります。しかし、交差地付近には民家も少なく(集落は平井・小松川村側にある)、田んぼの中の「十字路」(大正時代になると、役場や学校、道沿いに商家があった、ということです:江戸川区教育委員会「江戸川区の史跡と名所」より)。行徳街道はここから少し道が広くなっているようです。
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まだ荒川放水路(荒川)が開削されていなかった当時の地図(明治13年作成)。現在の小松川大橋の北、荒川と中川との中堤に位置する。南西から北東に進むのが「元佐倉道」(千葉街道)。北西から南東に向かうのが「行徳道」(今井街道)。元佐倉道は中川(地図の西方)を「逆井の渡し」で渡り、行徳道は「平井の渡し」で渡りました。元佐倉道(旧千葉街道)は、南西に進むと両国、東北に進むと市川へ。行徳道(今井街道)は、北西に進むと浅草、南東に進むと行徳へ。ちょうど「四股」はそれぞれへのほぼ同じくらいの距離に位置していたようです。地図の右(東)に流れる川は、小松川境川(現在は親水公園)。
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日光街道・千住の宿より分岐した水戸街道(陸前浜街道)から新宿(葛飾区)で分岐した街道が「佐倉道」。それに対して、この道が「元佐倉道」と称されたと思われます。
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「四股」の橋の遺構の他に、秋元邸内と川野邸内には四股にあった「道標」が保存されている、とのこと。
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銘文には、「大山石尊大権現 此の向キ市川道 秩父三峯山大権現 此の向キ浅草道 讃州金毘羅大権現 此の向キ行徳道 遠州秋葉大権現 此の向キ両国道」と四面(北東・北西・南東・南西方面)と銘記されている、とのことです。文化2年建立。
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