水戸街道と葛飾・新宿(にいじゅく)で分岐した「佐倉道(佐倉街道)」は現国道6号線(水戸街道)を越えて南下します。途中、高砂で直角に折れ、東南に向かいます。高砂駅近くを過ぎ、北総線・新柴又駅近くのガードをくぐり、そのまま行くと江戸川の土手に突き当たります。旧道は、江戸川河川敷に消えてしばらくなくなります。再び直線の道となった「佐倉道」はほぼ南下して京成線・江戸川駅のガードをくぐり、そこで、「元佐倉道(旧千葉街道)」と合流して東に向かい江戸川にある小岩・市川の渡し・関所を越えて市川に向かいます。かつての道筋は区画整理、道路拡張、さらに用水路の埋め立てなどかなり変化していますが、所々道標などで往時を偲ぶことが出来ます。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」
古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」
古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。