上の写真は、「安中市松井田町商工会」の建物。昭和14年(1939)松井田警察署として建てられました。2階建て・切妻・瓦葺・腰壁等石造り、屋根は破風でなかなかどっしりとした趣。
左手の古民家の門前。特定日に「中山道分間延絵図」を公開しているそうです。
モダンな感じの道標。
まだまだ先は長い!
「松井田宿」でけっこう気になったのは、空き地が目立つこと。商店もあまりやっていないようだし、人の通りも車の通りもあまりない。これまでの道中でも見かけた、過疎の町、という印象を持ちましたが。
(15:12)「安中署松井田分庁(松井田警察署)」の手前を左に入る道が旧道。
右手には「庚申塔」。
その先には藪の中に「一里塚跡」碑。
一里塚跡(江戸より32里目)
この場所は松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
明治20年代まではこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。この立て札の南方およそ10メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。
平成12年2月吉日 松井田町教育委員会
裏手にはその塚跡があるとか、この木の付近?
(15:20)突き当たりは、JR線の踏切「製紙踏切」。
旧道はそのまま踏切を渡って進んだらしいですが、現在は途中で道がなくなっているので、線路沿いに歩いて「第十中山道踏切」を渡ります。
左手には特異な山容の「妙義山」。
若い頃、2,3回「妙義山」に登ったことがあります。表妙義、裏妙義とごつごつした岩肌や切り立った崖があったりし、鎖場があったりして、変化に富んでスリル満点でした。
「T」字型をした「丁須岩」が印象深く残っています。丁須岩の上に登るのは意外と簡単でしたが、下りは・・・。後に、奥穂高・ジャンダルムの時にその経験が活かされましたが。
てっぺんにあったその岩はここから見えるだろうか、期待を込めて歩きます。
踏切を越えた辺りから地元の方とご一緒に。農作業を終えて帰宅中とか。おしゃべりをしながら妙義山を見上げると、てっぺんにT字形の岩が。写真ではまったく分かりませんが。
左にある「佐藤産業建設」のところを左折し、その先のT字路を右折すると、旧道に復帰します。
振り返って来た道を望む。
(15:35)「国道18号線」との合流の手前に、「石灯籠」。右手におなじみの「道標」。
「中山道」は国道によって分断されるので、いったん「国道18号線」を左に行き、「五科」交差点から「上信越自動車」の橋脚の下に出ると、旧道。
振り返って望む。さっきの道の延長上です。
(15:39)行く先を望む。
庭先に「庚申塔」と「二十三夜塔」。
このあたりで携帯電話が電池切れになって、むやみに写真を撮れない状態になりました。
その先を右に入ると、「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」の立て札。
その先の「お東踏切」を渡ると、正面に五料茶屋本陣「お東」・その西側に「お西」が並んでいます。「松井田宿」と「坂元宿」・碓氷関所の中間に位置し、参勤交代の大名・公家等の休憩所として置かれていました。
両家共に中島姓であった為、お東・お西と呼ばれ、天保7年(1736)から明治5年(1872)までは、1年交代で名主を勤めていました。
木造二階建ての建物は、共に文化3年(1806)建立で、間口13間・奥行7間の切妻造りで、母屋の規模や平面は同じ。群馬県の史跡に指定されています。
「お東」。 「お西」。
妙義山。
「榎踏切」を渡り、「丸山坂」を上っていきます。坂の頂上付近の左手に「夜泣き地蔵・茶釜石」や石塔があります。
(15:54)
茶釜石
この奇石はもと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った(太田)蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色にさっそく次の狂歌を作ったといいます。
五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人と
この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名があります。
人々はこの石をたゝいてその不思議な音色を懐かしんでいます。
五科七不思議の一つに数えられています。
「夜泣き地蔵」の解説文はありません。
振り返って望む。
のどかな里山道を下って行きます。
「信越線」にぶつかるので、線路に並行して進みます。右手に「碓氷神社」。その前にある「高墓踏切」を越え、すぐ目の前の横断歩道を渡っての先の高墓踏切で信越本線を渡り、直進して突き当りを右折して進みます。
「臼井小学校」を過ぎ、庚申塔等の石塔群が祀られている先で、「国道18号と」合流します。
「高崎から27㎞」ポスト。
「小山沢川」を小山沢側道橋で渡り、「小山沢」交差点から斜め左の旧道に入ります。
(16:19)国道に再び合流する手前、右側に「百合若大臣の足痕石」があります。
百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれています。
百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、北九州に多くの話が伝わっている。
力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。
これを見ていた家来の一人も負けずと、腰にぶら下げていた弁当のむすびを 力一杯放り投げ、山には二つの穴があいた。今でも二つの穴がここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われる。
百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されている。
しばらく「国道18号線」を行き、「下横川」交差点で信越線の踏切を渡り線路の右側を進みます。途中、右側の崖から飲めるような雰囲気の湧き水が流れ出しています。
(16:31)振り返って望む。「横川」発「高崎」行き電車が通過中。
(16:44)そろそろ本日の行程も終了、「峠の釜めし」の「荻野屋」さんを左に曲がれば「横川駅」に到着です。
「横川駅」。
JR「横川」駅は信越線の終着駅。「長野(現北陸)新幹線」の開通で、ここから「碓氷峠」を越えて「軽井沢」に向かう鉄道は、今はもうありません。
久々に「峠の釜めし」を買って来ました。
群馬八幡駅~板鼻宿~安中宿~松井田宿~横川駅 約28㎞。
次回は、いよいよ「碓氷峠」を越えて軽井沢入りです。その前に「アプトの道」を歩くことになりそうですが。
左手の古民家の門前。特定日に「中山道分間延絵図」を公開しているそうです。
モダンな感じの道標。
まだまだ先は長い!
「松井田宿」でけっこう気になったのは、空き地が目立つこと。商店もあまりやっていないようだし、人の通りも車の通りもあまりない。これまでの道中でも見かけた、過疎の町、という印象を持ちましたが。
(15:12)「安中署松井田分庁(松井田警察署)」の手前を左に入る道が旧道。
右手には「庚申塔」。
その先には藪の中に「一里塚跡」碑。
一里塚跡(江戸より32里目)
この場所は松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
明治20年代まではこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。この立て札の南方およそ10メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。
平成12年2月吉日 松井田町教育委員会
裏手にはその塚跡があるとか、この木の付近?
(15:20)突き当たりは、JR線の踏切「製紙踏切」。
旧道はそのまま踏切を渡って進んだらしいですが、現在は途中で道がなくなっているので、線路沿いに歩いて「第十中山道踏切」を渡ります。
左手には特異な山容の「妙義山」。
若い頃、2,3回「妙義山」に登ったことがあります。表妙義、裏妙義とごつごつした岩肌や切り立った崖があったりし、鎖場があったりして、変化に富んでスリル満点でした。
「T」字型をした「丁須岩」が印象深く残っています。丁須岩の上に登るのは意外と簡単でしたが、下りは・・・。後に、奥穂高・ジャンダルムの時にその経験が活かされましたが。
てっぺんにあったその岩はここから見えるだろうか、期待を込めて歩きます。
踏切を越えた辺りから地元の方とご一緒に。農作業を終えて帰宅中とか。おしゃべりをしながら妙義山を見上げると、てっぺんにT字形の岩が。写真ではまったく分かりませんが。
左にある「佐藤産業建設」のところを左折し、その先のT字路を右折すると、旧道に復帰します。
振り返って来た道を望む。
(15:35)「国道18号線」との合流の手前に、「石灯籠」。右手におなじみの「道標」。
「中山道」は国道によって分断されるので、いったん「国道18号線」を左に行き、「五科」交差点から「上信越自動車」の橋脚の下に出ると、旧道。
振り返って望む。さっきの道の延長上です。
(15:39)行く先を望む。
庭先に「庚申塔」と「二十三夜塔」。
このあたりで携帯電話が電池切れになって、むやみに写真を撮れない状態になりました。
その先を右に入ると、「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」の立て札。
その先の「お東踏切」を渡ると、正面に五料茶屋本陣「お東」・その西側に「お西」が並んでいます。「松井田宿」と「坂元宿」・碓氷関所の中間に位置し、参勤交代の大名・公家等の休憩所として置かれていました。
両家共に中島姓であった為、お東・お西と呼ばれ、天保7年(1736)から明治5年(1872)までは、1年交代で名主を勤めていました。
木造二階建ての建物は、共に文化3年(1806)建立で、間口13間・奥行7間の切妻造りで、母屋の規模や平面は同じ。群馬県の史跡に指定されています。
「お東」。 「お西」。
妙義山。
「榎踏切」を渡り、「丸山坂」を上っていきます。坂の頂上付近の左手に「夜泣き地蔵・茶釜石」や石塔があります。
(15:54)
茶釜石
この奇石はもと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った(太田)蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色にさっそく次の狂歌を作ったといいます。
五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人と
この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名があります。
人々はこの石をたゝいてその不思議な音色を懐かしんでいます。
五科七不思議の一つに数えられています。
「夜泣き地蔵」の解説文はありません。
振り返って望む。
のどかな里山道を下って行きます。
「信越線」にぶつかるので、線路に並行して進みます。右手に「碓氷神社」。その前にある「高墓踏切」を越え、すぐ目の前の横断歩道を渡っての先の高墓踏切で信越本線を渡り、直進して突き当りを右折して進みます。
「臼井小学校」を過ぎ、庚申塔等の石塔群が祀られている先で、「国道18号と」合流します。
「高崎から27㎞」ポスト。
「小山沢川」を小山沢側道橋で渡り、「小山沢」交差点から斜め左の旧道に入ります。
(16:19)国道に再び合流する手前、右側に「百合若大臣の足痕石」があります。
百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれています。
百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、北九州に多くの話が伝わっている。
力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。
これを見ていた家来の一人も負けずと、腰にぶら下げていた弁当のむすびを 力一杯放り投げ、山には二つの穴があいた。今でも二つの穴がここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われる。
百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されている。
しばらく「国道18号線」を行き、「下横川」交差点で信越線の踏切を渡り線路の右側を進みます。途中、右側の崖から飲めるような雰囲気の湧き水が流れ出しています。
(16:31)振り返って望む。「横川」発「高崎」行き電車が通過中。
(16:44)そろそろ本日の行程も終了、「峠の釜めし」の「荻野屋」さんを左に曲がれば「横川駅」に到着です。
「横川駅」。
JR「横川」駅は信越線の終着駅。「長野(現北陸)新幹線」の開通で、ここから「碓氷峠」を越えて「軽井沢」に向かう鉄道は、今はもうありません。
久々に「峠の釜めし」を買って来ました。
群馬八幡駅~板鼻宿~安中宿~松井田宿~横川駅 約28㎞。
次回は、いよいよ「碓氷峠」を越えて軽井沢入りです。その前に「アプトの道」を歩くことになりそうですが。