しばらく「国道20号線」沿いに進むと、右手の小高い丘が公園になっています。緑色のネットで囲まれた、この公園。国道から入るのには、階段を上らなくてはなりません。いったいどういう利用者がいるのか? 朽ちたようなベンチと奥の方に遊具がある、さびれた公園のようす。実はこれがさっきの築堤の延長で、廃線跡なのです。
西側を望む。たしかに線路跡のようです。
私有地なのかどうなのか、そこを歩いていくと、竹藪が覆い被さってきます。
かき分けて抜けると、まだ先が続きます。
が、しばらくすると、もう進むのには無理な状態に。
そこから来た道を振り返って望む。
仕方なくここで引き返そうと思いましたが、左手のちょっとした盛り土に細道がついています。農作業用の小道なのでしょう。その道を辿ってみることに。すると、右手下の藪の向こうに、トンネルが見えます。
藪越しですので、写真でははっきりしませんが。
直接さっきの線路跡をたどっていけば、あるいは降りてみようかと一瞬思いましたが、冒険は禁物。若ければ、たぶん藪漕ぎをしたでしょうが・・・。でも、上からでも発見できたので満足です。
再び国道に戻り、進みます。
「東京から89㎞」ポスト(13:45)。
なまこ壁の倉。
しばらく行き、斜め右の道に入り、すぐ先で右手の坂道を上ります。
振り返って望む。
突き当たりには「富浜公民館小向袴着分館」。館名「・・・袴着」も興味深いですが。
(13:50)その右手奥に先ほどのトンネルの猿橋側の入口が見えます。
「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。
坂を下りて、今度はさっきの分岐点を右に進みます。この道が「旧甲州街道」にあたります。「行き止まり」の表示があって、この先は、私有地になるようです。
行き止まり。
なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。
遠く南には現在の中央本線。かなり高い橋梁。
「国道20号線」に戻り、「宮谷川」を過ぎる途中、道路沿いの目の下に古びた橋梁。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。(14:00)
名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。
「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)
激しく車が行き交う国道のすぐ近くにあります。
下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、なかなか見上げても壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。
(14:10)しばらく行くと、左手に築堤跡の空き地。
線路は正面奥から続いていました。
右手の高台にトンネル入口跡。
道路からそこまで踏み跡があり、ほとんど垂直の崖を上れば近くにまで行けそうな雰囲気ですが、ここも、自重。
「東京から90㎞」ポスト(14:15)。
西側を望む。たしかに線路跡のようです。
私有地なのかどうなのか、そこを歩いていくと、竹藪が覆い被さってきます。
かき分けて抜けると、まだ先が続きます。
が、しばらくすると、もう進むのには無理な状態に。
そこから来た道を振り返って望む。
仕方なくここで引き返そうと思いましたが、左手のちょっとした盛り土に細道がついています。農作業用の小道なのでしょう。その道を辿ってみることに。すると、右手下の藪の向こうに、トンネルが見えます。
藪越しですので、写真でははっきりしませんが。
直接さっきの線路跡をたどっていけば、あるいは降りてみようかと一瞬思いましたが、冒険は禁物。若ければ、たぶん藪漕ぎをしたでしょうが・・・。でも、上からでも発見できたので満足です。
再び国道に戻り、進みます。
「東京から89㎞」ポスト(13:45)。
なまこ壁の倉。
しばらく行き、斜め右の道に入り、すぐ先で右手の坂道を上ります。
振り返って望む。
突き当たりには「富浜公民館小向袴着分館」。館名「・・・袴着」も興味深いですが。
(13:50)その右手奥に先ほどのトンネルの猿橋側の入口が見えます。
「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。
坂を下りて、今度はさっきの分岐点を右に進みます。この道が「旧甲州街道」にあたります。「行き止まり」の表示があって、この先は、私有地になるようです。
行き止まり。
なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。
遠く南には現在の中央本線。かなり高い橋梁。
「国道20号線」に戻り、「宮谷川」を過ぎる途中、道路沿いの目の下に古びた橋梁。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。(14:00)
名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。
「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)
激しく車が行き交う国道のすぐ近くにあります。
下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、なかなか見上げても壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。
(14:10)しばらく行くと、左手に築堤跡の空き地。
線路は正面奥から続いていました。
右手の高台にトンネル入口跡。
道路からそこまで踏み跡があり、ほとんど垂直の崖を上れば近くにまで行けそうな雰囲気ですが、ここも、自重。
「東京から90㎞」ポスト(14:15)。