(11:27)道幅が広くなって、かつてはここから1㎞にわたり、杉並木が続いていた「安中原市杉並木」跡にさしかかります。安中宿側には1本も杉はなく、その代わりに花壇が道の両脇に続いています。かつての記念碑が建っているだけです。
「昭和九年建設 文部省」「天然記念物安中原市杉並木」。
安中市のバイパス道路の西外れから原市に至 る旧中山道沿いにある。かつて延長約1㌔あっ たが、現国道18号線沿いの部分は枯死はなはだ しく、昭和42年に指定解除された。指定当時321本あったが現在は目通り50㌢以上のスギは24本残るのみとなり、その平均は2.2㍍で、北側11本、南側13本である。
1604(慶長9)年中山道を改修し、同時に江戸日本橋を基点として、1里ごとに一里塚を築いたことが記録にあり、この改修当時に植樹されたものといわれる。以来、安中藩が管理補植に当たってきたが、幕末の天保 年間には732本のスギを数えたという。明治以降は道路管理と一体的に維持されてきた。
1970(昭和45〉年の群馬県林業試験場のスギ並木の実態調査によると、樹高は最高41㍍、最低11㍍、平均31㍍、目通り周は最高5.9㍍、最低0.8㍍、平 均2.8㍍であり、伐採木8本の年輪調査では、最高320で280前後が多かった。ヨシノスギの若木29本が南側に植えられ、新しい並木の復活に期待したい。
花壇の端に腰掛けて小休止。目の前にはたぶん「桑畑」。
養蚕の盛んだった頃は、北関東のあちこちで桑畑を見ましたが、今回、歩いていて沿道に桑畑を見ることはありませんでした(気づかなかっただけかもしれませんが)。はじめての遭遇。
桑は蚕のための葉だけではなく、実がなって、食べると甘酸っぱくおいしかったことを記憶しています。昔、勤務先の一画にどういうわけか桑の木が1本植わっていて、初夏の頃、その実を摘まんだことを思い出します。
(写真は、「Wikipedia」より)
以前、「地図」を広げると、関東地方ではこの記号をあちこち見ましたが、今は・・・。
(11:44)「国道18号線」を横切ります。
振り返って望む。
左側に「道祖神」等、3基の石塔。
応急給水施設「並木配水池」の大きなタンクの前面には、杉並木の中を5人の藩士達が駆けぬける「安中の遠足(侍マラソン)」の大きな図柄が。
その先から「杉並木」がしばらく続きます。今の時期、「花粉症」にはたまらない赤茶けた杉、杉、杉。
整然と植えられています。東海道は松並木でしたが、こちらは杉並木が基本。
説明板。
安中原市の杉並木 国指定天然記念物 昭和8年4月1日指定
中山道の杉並木として江戸時代初期から植え継がれてきたが、その後の様子は左記の通りである。
・天保15年 安中分 387 原市分 345 合計 731
・昭和7 年 〃 118 〃 203 〃 321
・昭和42年 〃 67 〃 155 〃 222
・昭和43年 〃 全て伐採 〃 94 〃 94
・現 在 〃 0 〃 14 〃 14
・昭和60年以降植樹 0 〃 54 ミニ杉並木
今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない。
中山道しのぶ 安中杉並木(安中かるたより)
平成25年3月 碓氷安中ロータリークラブ
古木も残っていますが、昔日の面影はまったくなさそうです。切り株が痛々しい。枯死した原因は排気ガスなのか、それとも、・・・。
有名な「日光杉並木」。総延長が35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録され、周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、江戸時代の街道の景観をよく伝えています。
しかし、その杉並木も、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消しているそうです。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていません。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされています。
(以上「Wikipedia」参照)
「花粉症」の原因として今や厄介者扱いされる風潮もあるようですが、・・・。この先、長野県、岐阜県に入ると、こうした「杉並木」という光景が見られるのでしょうか?
原市側にも「記念碑」が建っています。
「杉並木」を振り返って望む。
(12:10)しばらく進むと、落ち着いた家並みに。
「原市村戸長役場跡」。
(12:16)その先、左手に「原市高札場跡」碑と「明治天皇小休止跡」石柱。以前は民家があったようですが、現在は更地になっています。
説明
明治11年北陸東海巡幸の際9月3日御小休所となりたる処にして主要部分はよく旧規模を存迫りせり。・・・昭和15年5月 文部省
当時を偲ばせるものは奥にある庭なのか?
「真光寺の釣り鐘」(奥の左手)
安中市で、戦災を免れた数少ない時の鐘。真光寺が廃寺となった後も、鐘のみが残されています。
蔵造りの建物。なまこ壁が。
緩やかな上り坂を進みます。振り返って望む。
「中山道 松井田宿←4.9K 安中宿→ 4.2K」。
小学校、中学校を過ぎると、左手に「八本木旧立場茶屋」。
道の反対側には「八本木延命地蔵堂」。
(12;37)行く手には「妙義山」と「浅間山」。
「昭和九年建設 文部省」「天然記念物安中原市杉並木」。
安中市のバイパス道路の西外れから原市に至 る旧中山道沿いにある。かつて延長約1㌔あっ たが、現国道18号線沿いの部分は枯死はなはだ しく、昭和42年に指定解除された。指定当時321本あったが現在は目通り50㌢以上のスギは24本残るのみとなり、その平均は2.2㍍で、北側11本、南側13本である。
1604(慶長9)年中山道を改修し、同時に江戸日本橋を基点として、1里ごとに一里塚を築いたことが記録にあり、この改修当時に植樹されたものといわれる。以来、安中藩が管理補植に当たってきたが、幕末の天保 年間には732本のスギを数えたという。明治以降は道路管理と一体的に維持されてきた。
1970(昭和45〉年の群馬県林業試験場のスギ並木の実態調査によると、樹高は最高41㍍、最低11㍍、平均31㍍、目通り周は最高5.9㍍、最低0.8㍍、平 均2.8㍍であり、伐採木8本の年輪調査では、最高320で280前後が多かった。ヨシノスギの若木29本が南側に植えられ、新しい並木の復活に期待したい。
花壇の端に腰掛けて小休止。目の前にはたぶん「桑畑」。
養蚕の盛んだった頃は、北関東のあちこちで桑畑を見ましたが、今回、歩いていて沿道に桑畑を見ることはありませんでした(気づかなかっただけかもしれませんが)。はじめての遭遇。
桑は蚕のための葉だけではなく、実がなって、食べると甘酸っぱくおいしかったことを記憶しています。昔、勤務先の一画にどういうわけか桑の木が1本植わっていて、初夏の頃、その実を摘まんだことを思い出します。
(写真は、「Wikipedia」より)
以前、「地図」を広げると、関東地方ではこの記号をあちこち見ましたが、今は・・・。
(11:44)「国道18号線」を横切ります。
振り返って望む。
左側に「道祖神」等、3基の石塔。
応急給水施設「並木配水池」の大きなタンクの前面には、杉並木の中を5人の藩士達が駆けぬける「安中の遠足(侍マラソン)」の大きな図柄が。
その先から「杉並木」がしばらく続きます。今の時期、「花粉症」にはたまらない赤茶けた杉、杉、杉。
整然と植えられています。東海道は松並木でしたが、こちらは杉並木が基本。
説明板。
安中原市の杉並木 国指定天然記念物 昭和8年4月1日指定
中山道の杉並木として江戸時代初期から植え継がれてきたが、その後の様子は左記の通りである。
・天保15年 安中分 387 原市分 345 合計 731
・昭和7 年 〃 118 〃 203 〃 321
・昭和42年 〃 67 〃 155 〃 222
・昭和43年 〃 全て伐採 〃 94 〃 94
・現 在 〃 0 〃 14 〃 14
・昭和60年以降植樹 0 〃 54 ミニ杉並木
今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない。
中山道しのぶ 安中杉並木(安中かるたより)
平成25年3月 碓氷安中ロータリークラブ
古木も残っていますが、昔日の面影はまったくなさそうです。切り株が痛々しい。枯死した原因は排気ガスなのか、それとも、・・・。
有名な「日光杉並木」。総延長が35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録され、周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、江戸時代の街道の景観をよく伝えています。
しかし、その杉並木も、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消しているそうです。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていません。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされています。
(以上「Wikipedia」参照)
「花粉症」の原因として今や厄介者扱いされる風潮もあるようですが、・・・。この先、長野県、岐阜県に入ると、こうした「杉並木」という光景が見られるのでしょうか?
原市側にも「記念碑」が建っています。
「杉並木」を振り返って望む。
(12:10)しばらく進むと、落ち着いた家並みに。
「原市村戸長役場跡」。
(12:16)その先、左手に「原市高札場跡」碑と「明治天皇小休止跡」石柱。以前は民家があったようですが、現在は更地になっています。
説明
明治11年北陸東海巡幸の際9月3日御小休所となりたる処にして主要部分はよく旧規模を存迫りせり。・・・昭和15年5月 文部省
当時を偲ばせるものは奥にある庭なのか?
「真光寺の釣り鐘」(奥の左手)
安中市で、戦災を免れた数少ない時の鐘。真光寺が廃寺となった後も、鐘のみが残されています。
蔵造りの建物。なまこ壁が。
緩やかな上り坂を進みます。振り返って望む。
「中山道 松井田宿←4.9K 安中宿→ 4.2K」。
小学校、中学校を過ぎると、左手に「八本木旧立場茶屋」。
道の反対側には「八本木延命地蔵堂」。
(12;37)行く手には「妙義山」と「浅間山」。