しばらく「国道20号線」を行くと、「小菅」交差点。そこを右に折れます。この道も旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。
「仙台屋食堂」の手前に先ほどのトンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いているはず。注意して歩いていましたが、「仙台屋」の前を過ぎてそのまま「猿橋」への階段を下りてしまいました。
どうも遺構(煉瓦積み)の前にあった、大きな神社の掲示板が視界を邪魔したようで、気つかずに通り過ぎてしまいました。もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のために目視することはできないようです。また、「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。
ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。
猿橋
江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。
《構造》
猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。
《歴史》
猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
木造で現存する刎橋はない。る
古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。
(以上、「Wikipedia」参照)
10年以上前の秋、ここを訪れています。そのときの写真。
今回は目的が違いますが、やはりここはきちんと押さえておきます。
名勝 猿橋 昭和7年3月25日指定
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば、「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
史実の中では文明19年(1488)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶景なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生活は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。
今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8千300万円であります。
橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。
大月市教育委員会
目の下の淵瀬。 西側。
目の下には水路橋。
「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。
↓がトンネル抗口と思われます(対岸より)。
案内板。広重の描いた浮世絵。
橋のたもとにある「忠治そば」。
「猿橋宿」の家並み。
旧線路は桂川の橋脚も撤去され、さらに「猿橋」駅への線路跡も「国道20号線」との交差地点地点も含めて、その痕跡は見当たらないようです。
「猿橋駅」から東を望む。
左手奥の方で現在の線路と合流していました。
「仙台屋食堂」の手前に先ほどのトンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いているはず。注意して歩いていましたが、「仙台屋」の前を過ぎてそのまま「猿橋」への階段を下りてしまいました。
どうも遺構(煉瓦積み)の前にあった、大きな神社の掲示板が視界を邪魔したようで、気つかずに通り過ぎてしまいました。もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のために目視することはできないようです。また、「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。
ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。
猿橋
江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。
《構造》
猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。
《歴史》
猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
木造で現存する刎橋はない。る
古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。
(以上、「Wikipedia」参照)
10年以上前の秋、ここを訪れています。そのときの写真。
今回は目的が違いますが、やはりここはきちんと押さえておきます。
名勝 猿橋 昭和7年3月25日指定
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば、「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
史実の中では文明19年(1488)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶景なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生活は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。
今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8千300万円であります。
橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。
大月市教育委員会
目の下の淵瀬。 西側。
目の下には水路橋。
「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。
↓がトンネル抗口と思われます(対岸より)。
案内板。広重の描いた浮世絵。
橋のたもとにある「忠治そば」。
「猿橋宿」の家並み。
旧線路は桂川の橋脚も撤去され、さらに「猿橋」駅への線路跡も「国道20号線」との交差地点地点も含めて、その痕跡は見当たらないようです。
「猿橋駅」から東を望む。
左手奥の方で現在の線路と合流していました。