旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家) 安中市指定重要文化財
この建物は「旧安中藩郡奉行役宅」で、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠が安中藩の郡奉行として住んでいました。
郡奉行とは安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には3人の郡奉行とその配下に4人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の地安・裁判などの仕事をしていました。
このたび、猪狩芳子氏から安中市へ建物が寄贈されたのを機会に、安中市の重要文化財に指定しました。
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母屋は、県内では珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、茅葺き屋根、武者窓、砂ずりの壁など、」いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。
この役宅は、安中城址の南西の部分に位置し、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形(ますがた)、役宅の長屋門の北には大名小路、袋小路や藩士の学校であった造士館跡及び安中藩会所跡があります。
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平成7年4月 安中市教育委員会
通りをはさんだ西側には、「旧安中藩武家長屋」。
かつて安中城内には家臣の屋敷が建ち並び、その一部は長屋でした。この建物はそのうちの4軒長屋で安中城西門のすぐ東にあったものです。
「大名小路ふれあい公園」案内図。
再び旧道に戻ってきます。宿内のようす。
少し進んだ左手に「便覧舎」跡。
湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。便覧舎は無料で利用でき、自由な閲覧が可能。人々は一心不乱に本を読み、新しい思想を身につけようとしました。これが民間人が創設した最初の図書館です。その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。
(以上、HPより)
湯浅治郎(1850~1932年)
上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長子として生まれる。実家の有田屋は父・治郎吉の代に南京米や魚油の輸入・蚕紙の輸出・販売も手がけていた。元治元年(1864年)に有田屋3代目当主となる。
福澤諭吉の著書を読んで教育の重要性を認識した湯浅は明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置し、図書館事業の先駆となった。同郷の新島襄と親しく交わり、明治11年(1878年)彼を中心に安中教会が建設された時にキリスト教の洗礼を受けた。 翌年、碓氷郡書記、更に明治13年(1880年)には群馬県会議員となり、同16年(1893年)には県会議長に就任して廃娼運動の先導役となった。
明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員(自由党所属)となるも1期で国政から引退し、家業の発展と社会・文化運動に力を尽くす。安中小学校設立に関与し、新島の同志社や義弟・徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援したほか、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事を務めた。また、警醒社(後に警醒社書店)を設立して内村鑑三らの出版事業を助けた。警醒社では『六合雑誌』を刊行している。明治25年(1892年)には京都に移住し、新島後の同志社理事として立て直しに尽力した。
また文化人としても活動し、海老名弾正、山室軍平、深井英五などと親交があった。
晩年は家業を息子・三郎に譲って同志社のある京都や警醒社のある東京で過ごした。昭和7年(1932年)6月7日、肺炎で死去。83歳。
「中山道」をはさんで向かいにその「有田屋社屋」があります。
醤油醸造元 有田屋
江戸末期・天保3年(1832)に味噌・醤油醸造元として創業。かつては安中藩の御用達を勤め、、味噌・醤油の醸造の他、穀物、油脂、肥料、塩等を扱う商家として営業をしてきた。
有田屋は本来の事業の他にも、明治、大正、昭和の3代に亘って、日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。
現在、醤油も大量生産、速醸の時代であるが、有田屋は昔ながらの天然醸造法で、じっくり発酵・熟成させる本物の醤油造りをかたくなに守り続けている。
株式会社 有田屋
奥に煉瓦造りの煙突が見えます。
全貌はご覧の通り。 (HPより)
「安中大木戸跡」碑。ここが安中宿の「上(京方)の木戸」となります。
宿内を振り返って望む。
「軽井沢(まで)31㎞」。
「新島襄旧宅入口」碑と「道祖神」。
ここで、「新島襄」について。
天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)は日本の宗教家、教育者。学位は理学士。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。
天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。
当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団に参加、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。
明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。
明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。
同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。
明治8年(1875年)11月29日、同志社英学校を開校し初代社長に就任。
明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。
明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発する。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。
明治18年(1885年)12月に帰国。
明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。
明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。
明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
(以上、「Wikipedia」参照)
「東海道」大磯宿で新島襄の終焉の地を訪れています。(2014.10投稿)
「新島襄終焉の地」
明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中、病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられた。