そろそろ、終着点に近づきました。正面の橋が「備前渠鉄橋」。その先が、かつての「日本煉瓦製造」の敷地になります。
国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 備前渠鉄橋(びぜんきょてっきょう)
重要文化財(建造物)
平成9年5月29日指定
煉瓦輸送専用線用に架設された鉄橋である。
創業当初からの輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するために建設されたのが本専用線であり、明治28年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
専用線には4箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道院技師、イギリス人チャールズ・アセトン・W・ボーナルが基本定規をを設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボーナル型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は15.7メートル(約50フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路の架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約2メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会
備前渠から望む。
用水路にある煉瓦アーチ橋。
ところで、「備前渠」とは? 以下、「Wikipedia」より。
埼玉県最古の農業用水路。
現在は本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れる。途中、御陣馬川や小山川と流路を共有する区間がある。埼玉県北部では、親しみを込めて「備前堀」や「備前渠」、「備前渠川」とも呼ばれている。現在でも用水路には開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。総延長は約23キロメートル、最大通水量毎秒約9立方メートルであり、利根川の右岸一帯の約1400ヘクタールの水田へ用水を供給している。
《沿革》
1604年(慶長9年) - 江戸幕府の命令により、関東代官頭伊奈備前守忠次によって計画され、20数キロメートルにわたり水路を 開削し、備前堀と名づけた。当時は正確な地図も無く、水路を開削する場所を幾度も歩いて調査し、夜には提灯を使い、土地 の高さを測り、水が流れることを確かめたりもした。鋤や鍬等で掘り、かるこ、もっこなどで土を運搬した。
その後、洪水で烏川の流路が変わり、取水口が壊滅する。
1783年(天明3年) - 浅間山の大噴火。岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がった。それに伴い、現在の本庄市周辺で は度々洪水となった。
1793年(寛政5年) - 取り入れ口の締め切り。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。
1818年(文政元年) - 用水が不足し年々米が不作となる。
1828年(文政11年) - 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に 位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。
1961年(昭和36年) - 現在の取水口が完成する。現在、用水路と施設の管理は備前渠用水路土地改良区が行っている。
《名称の由来》
伊奈備前守忠次によって計画されたことに由来する。渠は堀、人工河川などの中国風の呼び方である。
伊奈 忠次(いな ただつぐ)の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。
専用線の線路はここから敷地内に進んでいたようです。
かなり広い「旧日本煉瓦製造」の敷地。
線路跡の遊歩道はここで終点になります。
小広場にベンチなど。
すっかり整地された頃のようす。
2006(平成18)年に清算・廃業するまでは工場、建物が立ち並んでいたようですが、現在は「たつみ印刷」の建物と旧日本煉瓦製造関連の建造物(国指定重要文化財)が残っているだけです。↑が「日本煉瓦製造・ホフマン輪窯6号窯」。上方に「旧事務所」、「変電室」。道路をはさんだ北側の施設は、「深谷市浄化センター」。
奥に見える高い煙突が「ホフマン輪窯6号窯」の煙突。
煉瓦塀沿いに進むんで行きます。
左手には「小山川」の堤、その向こうに「赤城山」。
工場の一部として、「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」が残っており、国重要文化財となっています。それらは日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、深谷市に寄贈されることとなり、平成19年度に所有権が深谷市へ移転しました。現在、市ではこれらの施設の保存・活用のための作業を進めています。
ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです。
(「」HPより)
「旧変電室」。
「旧事務所」。
この施設は、「日本煉瓦史料館」になっていますが、閉館日のため中には入れず。
フェンス越しに。
「ホフマン輪窯6号窯」。(写真は「深谷市」HPより)
「小山川」の土手から「浅間山」(↓)。
橋のたもとにあるお店の「自販機」でお茶を購入、土手でひと休み。
遊歩道にはトイレは各所に設置されていますが、「自販機」はスタート地点の駅前にあるのみ。往復歩くことになる(基本的にはこうせざるをえない)ので、飲み物などの事前準備が必要です。
こうしてひと休みをして、再び元来た道を「深谷駅」まで。往復約8㎞の道のり。
よく整備された遊歩道で、ジョギングする人、散歩する人、犬を連れている人、自転車通学の高校生、荷台にネギを積んで通り過ぎる自転車、畑仕事をする人、・・・行きも帰りも地元の方々に出会いました。
周囲に広がる田園風景を楽しみながら、のんびりと歩いた2時間30分でした。
※ 航空写真は「歴史的農業環境閲覧システム」より。
国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 備前渠鉄橋(びぜんきょてっきょう)
重要文化財(建造物)
平成9年5月29日指定
煉瓦輸送専用線用に架設された鉄橋である。
創業当初からの輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するために建設されたのが本専用線であり、明治28年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
専用線には4箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道院技師、イギリス人チャールズ・アセトン・W・ボーナルが基本定規をを設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボーナル型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は15.7メートル(約50フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路の架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約2メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会
備前渠から望む。
用水路にある煉瓦アーチ橋。
ところで、「備前渠」とは? 以下、「Wikipedia」より。
埼玉県最古の農業用水路。
現在は本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れる。途中、御陣馬川や小山川と流路を共有する区間がある。埼玉県北部では、親しみを込めて「備前堀」や「備前渠」、「備前渠川」とも呼ばれている。現在でも用水路には開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。総延長は約23キロメートル、最大通水量毎秒約9立方メートルであり、利根川の右岸一帯の約1400ヘクタールの水田へ用水を供給している。
《沿革》
1604年(慶長9年) - 江戸幕府の命令により、関東代官頭伊奈備前守忠次によって計画され、20数キロメートルにわたり水路を 開削し、備前堀と名づけた。当時は正確な地図も無く、水路を開削する場所を幾度も歩いて調査し、夜には提灯を使い、土地 の高さを測り、水が流れることを確かめたりもした。鋤や鍬等で掘り、かるこ、もっこなどで土を運搬した。
その後、洪水で烏川の流路が変わり、取水口が壊滅する。
1783年(天明3年) - 浅間山の大噴火。岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がった。それに伴い、現在の本庄市周辺で は度々洪水となった。
1793年(寛政5年) - 取り入れ口の締め切り。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。
1818年(文政元年) - 用水が不足し年々米が不作となる。
1828年(文政11年) - 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に 位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。
1961年(昭和36年) - 現在の取水口が完成する。現在、用水路と施設の管理は備前渠用水路土地改良区が行っている。
《名称の由来》
伊奈備前守忠次によって計画されたことに由来する。渠は堀、人工河川などの中国風の呼び方である。
伊奈 忠次(いな ただつぐ)の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。
専用線の線路はここから敷地内に進んでいたようです。
かなり広い「旧日本煉瓦製造」の敷地。
線路跡の遊歩道はここで終点になります。
小広場にベンチなど。
すっかり整地された頃のようす。
2006(平成18)年に清算・廃業するまでは工場、建物が立ち並んでいたようですが、現在は「たつみ印刷」の建物と旧日本煉瓦製造関連の建造物(国指定重要文化財)が残っているだけです。↑が「日本煉瓦製造・ホフマン輪窯6号窯」。上方に「旧事務所」、「変電室」。道路をはさんだ北側の施設は、「深谷市浄化センター」。
奥に見える高い煙突が「ホフマン輪窯6号窯」の煙突。
煉瓦塀沿いに進むんで行きます。
左手には「小山川」の堤、その向こうに「赤城山」。
工場の一部として、「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」が残っており、国重要文化財となっています。それらは日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、深谷市に寄贈されることとなり、平成19年度に所有権が深谷市へ移転しました。現在、市ではこれらの施設の保存・活用のための作業を進めています。
ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです。
(「」HPより)
「旧変電室」。
「旧事務所」。
この施設は、「日本煉瓦史料館」になっていますが、閉館日のため中には入れず。
フェンス越しに。
「ホフマン輪窯6号窯」。(写真は「深谷市」HPより)
「小山川」の土手から「浅間山」(↓)。
橋のたもとにあるお店の「自販機」でお茶を購入、土手でひと休み。
遊歩道にはトイレは各所に設置されていますが、「自販機」はスタート地点の駅前にあるのみ。往復歩くことになる(基本的にはこうせざるをえない)ので、飲み物などの事前準備が必要です。
こうしてひと休みをして、再び元来た道を「深谷駅」まで。往復約8㎞の道のり。
よく整備された遊歩道で、ジョギングする人、散歩する人、犬を連れている人、自転車通学の高校生、荷台にネギを積んで通り過ぎる自転車、畑仕事をする人、・・・行きも帰りも地元の方々に出会いました。
周囲に広がる田園風景を楽しみながら、のんびりと歩いた2時間30分でした。
※ 航空写真は「歴史的農業環境閲覧システム」より。