次の「松井田宿」へ向かいます。「国道18号線」から1本北側の道。のどかな道筋が続きます。郷原地区。「道祖神」や「馬頭観音」などの石碑が道端に点々とあります。
(13:02)日枝神社。
妙義山がだんだん近くに。
左;道標「中山道 ←松井田宿 2.9K →安中宿 6.2K」。右;「道祖神」、「百番供養塔」。
その左手に「高札場跡」碑。
まもなく「国道18号線」に合流。
(13:24)旧道が「国道18号線」と合流すると、国道の向こう側に「妙義山道」常夜燈があります。
郷原の妙義道常夜燈 安中市指定重要文化財
この常夜燈は、文化5年(1808)、地元の碓氷郡郷原村を中心とする「妙義講」の人々が、 当時原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村民吉」という石工に建造させたものである。
常夜燈の露盤には16弁の八重菊の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化五年戊辰四月七日」、西面に「当所講中」と刻まれている。
また台座には「是より妙義道」と刻んでおり、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。台座には建立者62名の姓名と石工の名前が刻まれている。当時の人々の妙義山への深い信仰心を示している。
なお、元々この常夜燈はここから東へ50メートルの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。
安中市教育委員会
周囲には、「道祖神」や「山中貞輔」の歌碑などがあります。
山中貞輔は、江戸末期の寺小屋の教師で、群馬県の中後閑から郷原の山中氏の養子に入り、山中家12代当主となった人物。
《碑文》月の入る 西の都を さし行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし
もともとの道はもう少し東(「妙義道常夜燈」が本来あったところ)を左に入る「逢坂」でしたが、地震や水害で崩れて失われてしまったようです。現在は、400メートルほど国道を進み、左に下る道(明治天皇が行幸の際、開通した「明治天皇道」)を行きます。
「妙義山」と「碓氷川」。
「国道18号線」から分かれるところに「郷原地区長役場跡」の立て札。
下り坂になります。
「碓氷川」。旧道の痕跡はなさそうです。
右手に石仏、石碑群。
眼下の家並みと「妙義山」。
(13:44)県道33号線に合流。振り返って望む。
(13:48)県道の正面には「浅間山」。
右手にある「松井田下町郵便局」の先付近から「松井田宿」に入るようです。
(14:00)「下町」信号の手前、左手に「下の木戸跡地」「ももんが堀」の解説板。松井田宿内はこの看板が目印。
松井田宿名所・旧跡①下木戸跡地・ももんが堀(木戸東外)
下木戸はこの西辺り 「下町」信号のT字路から南へ向かう道路は、近年になってから新しく整備された道である。
下木戸から上木戸までは、全長6丁6間(約677m)木戸内は両側に堀割(巾・深さとも3尺)が完備していた。
ももんが堀(現在は案内板下暗渠)は、堀割の用水を集めて南方の碓氷川へと放流する役目がありました。
松井田宿
江戸から16番目の宿場。信州各藩から集まる年貢米の中継地として賑わい、「米宿」とも呼ばれていたという。
西に碓氷関所を控えており、馬子唄に「雨が降りゃこそ松井田泊まり降らじゃこしましょ坂本へ」唄われたように面倒な関所を越しておきたいと、松井田を通過してしまう大名や旅人が多かった。
町並みの長さ 9丁8間 人口 1,009人 総家数 252軒 本陣 2軒 脇本陣 2軒 旅籠数 14軒
歌川広重画
「下町」交差点を振り返って望む。
左手にある道標「中山道 松井田宿 → 」。
宿内の様子。
「脇本陣(字下町 徳右衛門屋敷)跡」。
江戸時代の宿駅で、旅する大名やその家中、勅使や宮門跡、幕府公用の役人などのため休憩所・宿泊所として設けられた公認の屋敷跡。凡そ建坪73坪、玄関門構無御座候と松井田宿明細帳に記述されている。
商家風の建物が見られます。
「畑中医院」という看板がある古い建物。
「辻中薬局」。「伊勢屋」という屋号があり、かつては商家?
その先、左手に「どっと混むイベント広場」。
(14:10)ベンチがあり、小休止。
(14:30)ここら辺りが宿場の中心。
「お休み処 みなとや」。
案内板⑦「どうぞ、どなた様もお時間が許すならば、お気兼ねなく立ち寄りください。みなとやは、旅を楽しむ人に地元ならではのひとときを提供するため、松井田に店開きした、古くて新しい(無料の)お休み処です。」
この案内板の前にあるはずの⑥「松本本陣(字上町 駒之亟 屋敷)跡」の看板が見当たりません。行き過ぎたと思い、戻ってみましたが、はて? 右手、クリーニング屋さんのところにあるはずだが・・・。そこは、更地になっていました。
その案内板には「凡そ建坪174坪玄関門構有之候。部屋数23室、表門両脇から東側に10軒の店舗が配されていた。裏門は非常之節御開所となる不動寺への通路。当時の敷地内には往時の名残を留める庭園、井戸、土蔵が残存する」とあったようです。(「松井田宿まち歩き」マップより)
そこで細道を上がってみて、行ったり来たり探しましたが、それらしき標識やめぼしいものは見当たりません。古い祠などはありましたが、住宅やアパートになっていて入り込むことは出来ず。ロスタイムあり。
(14:45)「脇本陣(字上町 安兵衛 屋敷)跡」。
・・・松井田宿明細帳に凡そ建坪82坪、玄関門構え無御座候と記述されている。
そこに「間口は街灯55番から65番まで」とあったので、注意して歩くと、実に長いものに。
歩道橋の右下に「→松井田宿」との標識。
「松井田宿上木戸跡地・案内板下に立が堀」。案内板の東方10m歩道橋下に表示あり
松井田宿は慶長年間より街道の改修が行われ、30年程後町並みも整い、更に50年程後、宿駅の構造としての機能を持つに至ったとされる。立が堀の水は上木戸で二手に分け、軒下を流れ生活用水に使用されていた。
先ほどの表示付近が「松井田宿」の上木戸(京方出入口)に当たっているようです。
(14:50)正面には「浅間山」。